勿体(もったい)ない

 

僕は幼い頃より、お前は勿体ないやつだと言われ続けてきた為か勿体ないという言葉に

やけに敏感である。

 

勿体ぶる、勿体ながる、勿体をつけるという言葉もあるが、

勿体とはいったいなんぞや…。と勿体という字を辞書で調べてみたら 

本来あるべき姿形とあった。

なる程、本来食べられるものを腐らせて捨てるのは勿体ないことだ。

では、なぜ僕は勿体ないのか……?

よく言われるのが、

お前のいい所はわかりずらい、認めにくい、認められないから勿体ない。

やれば出来るのにやろうとしないのは、勿体ない。

五体満足に生まれたのに頑張らないのは勿体ない。

ちゃんとした恰好して、ちゃんとアピ−ルすれば、認められるのに勿体ない。

お前の実力はこんなではない筈だ。

もっとやる気を出せ、もっと頑張れ、もっと自分をアピールしろ。と僕は先生や親から

言われ続けてきた。

しかし、その叱咤激励を、やる気を出せば出来るのかもしれないと励みに思いながら

それと同時に、そのやる気がでないのも能力のうちかと思うのだ。

やれば出来るというのは、やらないのに出来るつもりでいる思い上がりを感じる。

それは詭弁(きべん)であるかもしれないが、なまけ者であるということも僕の勿体、

本来あるべき姿なのであるのかもしれぬと思う。

 そして、「お前は自分中心な自分勝手な人間だ」も言われ続けてきている言葉だ。

そう、僕は人が何と言おうと、どう思おうと、自分が納得できればそれだけでいい。

200212月に、山小屋を建てた。

「何に使うつもりで建てたのか?」と何度か聞かれてきた。

「何にも使わないつもりで…」と答えると、又、勿体ないと言われる。

家の裏の見えないところに、火鉢がごろりと捨て置いてある。

すると又、「勿体ない、使わないなら くれ」と言われる。

そこでいつも思うことがある。

すべてのものは使わなくてはいけないのか、役に立たなければならないのか…と。

そうしたい人は、そうしたらいいだろう。

でも、そうしたくないなら、そうしなくてもいいのではないか、と僕は思うのだ。

何かいい事をしたら、良いものを持っていたら、人に知ってもらいたい、認められたい、

誰かに誉めてもらいたい、という気持ちがあった。

しかし、その気持ちを捨てようと思い。

そのように努力し始めから、随分と気が楽になってきた気がする。

 

せっかく主義というのもある。

せっかく旅行に来たんだから、せっかくお金をかけたんだから、

せっかく良いものが、あるのだから。せっかく才能があるんだから…。

というその後には、それを充分に使いこなし、役に立てようとする意欲のある言葉が続く。

それが、ずっと僕の中であせりと、負担になっていたことに気付いた。

それはそれで良いと思う そうしたい人はご自由にどうぞ・・・。である。

僕は旅行に行って、グダグダしていたいのだ、無駄なく時間を使うことに振り回されたく

ない。

高価なものであったとしても、肩肘張らずに気楽に使いたい。

気楽にといっても、高価でも安価でも、大事にしたいと思っている。

決して粗末にしようと思っている訳ではない、しかしそれらのものに縛られたくないのだ。

何か良いことがあっても自慢せず、アピールせず、かといって隠すこともせず。

あせらず、負担にせず、すべてのものを大切に思い、大切にしたいだけなのだ。

そして、勿体ないまんまの僕でいたいと思っている。