ムカツキ 2,0101月18日

 

ボクは、よくムカツクが、このムカツクって何なんだろう。

何か腑に落ちず、心の居心地が悪い。

そうなると、取り敢えず納得のいく所まで考えることにしている。

 

 その日は大忙しなのに、人手が足りず、そこに更に新しい商品が届いた。

それを待っている人が居て、急いで荷物を出さなければならない状況だった。

 でも、ボクには急いでやらなければならない仕事があった。

そこに彼が現れた。

彼もその商品を待っていた一人だった。

「あのぉ、箱から出して見てもいいですか?」

「おー、いいよー、つうか、助かるぜ」

「じゃ、お手伝いしますよ」

「そうか、助かるよ。じゃ、バイトでやってくれないか」

「バイトとかじゃなくて、手伝いますよ」

「ダメだな、そこんとこは、ちゃんとしないと逆に頼みづらいんだよ」

「じゃ、バイトってことで」

というワケで彼に荷物を出す仕事をしてもらった。

 いやー、助かった。

大手メーカーで働いていたという彼は、仕事も早いが商品の組み合わせが面白かった。

 でも、ウチには向かないと最初っから踏んでいた。

ウチは自信を持って押してくる人は向かない。

 周りの人の気持ちを考え、様子を見て、自分が中心じゃない引くことを知っている人で

ないと足並みが揃わなくなり、店の雰囲気が壊れてしまう。

「どーだ、どーだ」と得意満面でハシャイデうるさいのは、ボク一人で十分なのだ。

 彼の組み合わせをスタッフが誉めていた。

すると「ええ、このコンセプトは、〜なんです」と彼は説明していた。

 あー、大手メーカーだなぁ。と思う。

自分を表現し、売り込むことを、勉強させられてきたのだ。

 

ボクの場合、ボクの美意識なのだが、自分のしたことを認められた時

「えー、ベツに適当にやっただけだよ」

「いい加減、いい加減」「マグレ」「何でだか出来ちゃったよ」と、思惑通りであった時

ほど、それを、切り捨てて見せる。

 自分で満足して「どーだ、どーだ」と言っている時も、それについて相手がどう思って

いるかを聞きたいのであって、自分の考えを押し付けたくないと思っているので、説明は

あまりしない。

 

 まっ、それはどうでも、その後、

「彼はウチのカラーじゃないな」とボクが言った途端、

ミンナが頭から「私は反対です!」とまるで、ボクが彼を雇うつもりでいるかのように

口々に彼が働くということに反対し出した。

「ウルサイ!誰が彼を雇うなんて言ったんだよ」

「だって、先生は何でも自分勝手に決めるから」

「そーですよ。先生は何か決めてしまってから事後承諾ってことがあります!」

「私はあの人がココで働くことには反対です」

「あのね、彼はココで働きたいなんて一言も言ってないし、ボクも雇いたいなんて言った

覚えないからね」

「だったらいいんですけど」

「何が、だったらいいんだよ。

前のボクは兎も角、最近のボクは何でも相談してから決めてるだろうが」

「そうですかぁ?この間の仕事は先生が決めたんじゃないですか?」

「あれは、勝負の時だろうが、あれで勝負しなかったら生き残れないだろうが。

それにあの時、ミンナに相談してなんて悠長なことやってたら、取れなかっただろうに」

「だから、それが悪いなんて言ってませんよ。やっぱり先生の判断と決断でこの店の運営

はなされてるってことを言ってるんです。

そこんとこを認めてください。私はそれでいいと思ってますから、私にこの店任せるって

言ってますけど、やっぱりこの店は先生の店です。

私はその方がいいんです。先生の店で頑張りますから、働かせてください。

でも、やっぱり大事なことはミンナで決めて欲しいんです」

「あーあー、分りました。これからは気をつけますよー」

 と、下アゴを突き出して負けを認めたんだけど、

言わせてもらえば、まぁ今までのボクのやり方の後遺症なんだろうが、決めてもいない

のに反対を唱えるのは止めてくれ。

 最初から彼を雇う気もなかったし、彼がウチのカラーとは違うタイプの人だという

話をしたかっただけなのに、頭ごなしに総すかんを食うってのは、納得がいかん。

 それじゃ、話にも何にもなりゃしない。

それにあの言い方は、彼が手伝ってくれたことで大いに助かったという恩義に対して

失礼だと思う。

 

 ボクは、スベテのことを切り離して考えたい。

助かったことには感謝、でも感謝したからといって優遇することはしない。

 自分の中で考えたことを話したいと思うが、それを頭ごなしに反対されたのでは

消化不良になる。

 ボクは無防備で生きたいと思ってきた。

だから、「最初はこうおもったけど、やっぱりこうすることにした」と話そうと思った時に

頭ごなしに反対されたり、結論を言うと、

「あら、先生でも分からなかったんですか?私は最初から分ってました」などと

したり顔で言われると、ムカっときて

「そりゃエライですね。ボクは考えが浅いもんですから、それに鈍感なもんですから

よーく考えないと分らないんです。勘が鈍くてすみませんでしたねー」と言うことになる。

 

 今、次女が妊娠して産み月に入っている。

そこで、出産や育児について頼んでもいないのにアドバイスしたがる人が多い。

 そして、殆どの人が自分の体験を語りたがる。

それは、親切なのか体験を語ることへの自己満足なのか。

その二つの間で揺れ動いているようにも見えるアドバイス。

 

 勉強するとバカになると言った人が居た。

数式を解こうとした時、方程式を鵜呑みにして使うことでそこにある数式を解く意味を

考えなくなる人が多いからだという。

 自分の目で見ようとすること、自分の頭で考え、自分の感性に耳を傾けることこそが

大事なんじゃないかと私は思う。

 ボクは色んな相談をされることが多い。

「で、あなたは、それについてどう感じているの?」と聞くと

「えー」と首を傾げる。

「それで、いいの?イヤなの?」

「さぁー」と人事のような人が居る。

 もう、そろそろ寝ぼけて生きるのを止めなきゃなんない時がきたんじゃねえの?と

その時、思う。

だって、「どうしたらいいか分らないんです」って相談してきたんだぜ。

もう、目が覚めたいと感じてるんじゃないのかな。

 

 最近、何だかの学者が

「知識と体験、勉強は創造する心をなくさせ、人間を小さくする」って言ってた。

 こんなこと言うと「じゃ、勉強しない方がいいんだ」と安直に考えるバカが居る。

知識も体験も勉強も、大切だっぺ。

 ただ、持ってるもんに縛られて小さくなりやすいっていうのなら、少しばっかりの

知識や体験、勉強したことだけで物事を判断するんじゃなく、体験していないことまで

考え想像する柔軟な気持ちを持てばいいんだべ。

 知識はツール(道具)だ。道具に縛られて不自由になったんじゃバカみたいだ。

道具は使いこなしてなんぼじゃねえのか。

今ある道具に囚われてたら、新しい道具を見つけることや、道具なしで考えることが

できなくなる。

体験だって自分が体験したという宝を、敢えて切り離すことによって自由で柔軟な

思考をすることが出来るようになるんだと思う。

 冷暖自知(冷たいも暖かいも自らが体験することで知る)という言葉を、道元は否定

したといわれるのはそこの所じゃないかと思うんだ。

 

 えーと、ボク、ナニ怒ってたんだっけ。

そうそう、頭っから決め付けるのと、分ったという思い込みがイヤだって話よ。

 あと、何か(金、権力、学歴、知識、経験なんか)があることによっての不自由って

勿体ないと思わないか。

だったらない方が良いって人が居るけど、あってもなくてもダメな人はダメで良い人は

良いんじゃないかな。