投げキス

 

 今年の6月半ば、父のたっての希望でサコウジュに入った。

サコウジュとは、サービス付き高齢者住宅というワンルームアパートのような所だ。

毎日365日、朝昼晩の食事が付いていて、要らない時は前日に言えば止めることが

出来、何時でも外出外泊オーケー(連絡して)。

 足腰が弱り痛みも酷くなってきた父は、もう家で一人で暮らすことは出来ないと観念

し、また、毎日のように通う私に気づかっての決断だった。

 私は卑怯な人間で、人が何かしようとする時にああしろこうしろと言わない。

それは私が責任を持つのが嫌なのでは断じてない。(つもりでいるが、どうかな)

 人が何かを決めて、それを行動に起こす時、それはその人が決定し、責任を持つのは

権利であると同時に義務であると思う。

 そして、その人にやってくる事はその人、本人以外に背負う事は決して出来ない。

世話をしたり面倒をみているつもりの人間も、自分以外の人の人生でなく自分の人生を

生きているのだ。

 

 母の命日が去年の12月15日。

彼女は私を産んだ1年後だから63年前、卵巣のう腫の手術で出血多量になり大量輸血

で一命を取り留めたが、C型肝炎となり、その病気が世に分かって治療が始まった

30年前のその前から身体の不調(頭痛など)で病院に通っていた。

私たちがここに引っ越してきたのが36年前の12月15日で、18日にオープンしたが

母の毎月の病院通いはその前から始まっていた。

 その頃は元気だった父が病院に連れて行くことが出来て、私と交代で病院に通った。

私は、2歳と4歳の子供に勤めと店のかけもちでなるべく父に頼みたかったが、母は私と

病院に行きたがった。

その頃の病院は家から1時間以上掛かり、その間中、私と出掛けることを喜ぶ母は車の

中で喋りつづけた。

母の家に行くと、母はまるで遠足にでも行くかのように焼きおにぎりを作りデザート

(母が子供の頃覚えた近所の宣教師からの発音で母は、レザートと言った)や果物を

用意して待ちかねていた。

私が通うのが大変だからという事もあって私の家の近くに家を建てたのが10年前だ

った。

 そこで、毎日のように来ると思っていた私に孫が出来、仕事に転機があり、そして

何より私はお茶のみ話が苦手なのだ。

週に何回かは行ったが、母が期待していたほど私は両親の家でゆっくり出来なかった。

母は手作りの料理を作り届けたり取りに来させたり、仕事をしている私の所へリュック

を背負って歩いてきた。

 ある時、父から「母が麻子の所へ行くと言って出かけたきり帰ってこない」と電話があった。

母の家は店から歩いて10分も掛からない距離にある。

自転車で探しに行くと原っぱに座り込んでいる母が居た。

天気の良い、気持ちのいい日だった。

「なーにしてるのぉー」と声を掛けると、まあるい身体で立ちあがってこっちを見て、

「あっ、あさこ、これ 四つ葉のクローバー」と言った丸い顔には満面の笑みがあった。

背には何時ものリュック、その中には浅漬けの白菜があったが、長い時間揺られて

夕食の時には酸っぱくなっていたっけ。

四つ葉のクローバーが好きで、熱心に、真面目な顔で、長い時間探して、押し花にし

ていた。

「これ、お前にやるよ」と幾つ貰っただろう。

その度に「あたしは要らないから誰かにやりなよ」と私は言った。

「そんなこと、言わねえで貰ってくれろよ、お母ちゃんはおめえに幸せになって欲しい

んだよ」と母は言った。

 強気で臆病な母は、夜中に不安になると電話を掛けて来た。

「なにやってんだ!?」

「何って、寝てた」

「そーか、元気か!?」

「んー、風邪気味なんだ」

「そんじゃ、早く寝ろ!」って、寝てたんですけどー。ってことが何度あったことか。

高校の時、私は髪を伸ばした。

その髪を母は毎日櫛で梳(と)かして一つに結んだり二つに結んだり、三つ編みにして、

私が自分で髪を縛ったことはなかった。

邪けんで親切で、親切が過ぎて、過干渉で、心配し過ぎて殴りつけてくるような母だった。

 父と母は仲が悪い、というより母が父を嫌っていた。

父は親切で母に頼まれたことで、嫌と言うのを聞いたことがない。

 そこまで足蹴にするかぁー!という言動を母は父にした。し続けてきた。

それが、母が天国に行く1年位前から父が来ることを心待ちにするようになった。

 会っても会話のない二人だが、言葉でない何かが通じているように見えた。

 

 今、父は老人性ウツのようだ。不安で仕方がない、一人で居られない、身体は痛み

便秘を恐れ、とにかく調子が悪く、早く死にたい。とそればかりを繰り返している。

 母が居なくなった家で暮らしていた時、デイサービスに行く前に顔を出すとニコニコ顔

で見送る父に思いっきり笑いながら毎日手を振って仕事に来た。

 すると、一日中笑顔が顔に張り付いていたっけ。

今の父には、叱咤激励の日々でどうしたら彼が明るい気持ちになれるのだろうかと思う。

 

昨日の朝、サコウジュのデイサービスで一番風呂から出てきたばかりの父が、珍しく

機嫌が良かった。

嬉しくなって、ちょっと話をして「じゃ、仕事行ってくるね」と言うと

「うん、ありがとうね」と何時ものセリフ。

私が部屋から出て行く時もずっと手を振っている父に、ドアを閉める時、投げキスをした。

 すると、父の顔つきが変わって首を傾げている。

もう一度投げキスをしたが、怪訝(けげん)な顔。

車椅子に座っている父の所に戻って

「何?どうかした?」と聞くと

「麻子がナニ?」と言う。

「何って、ナニよ」

聞いてみたら、5メートル先は殆ど見えないのだと言う。

「えー、見えてないの?」

「うん、見えない」

 そっかぁー、見えてなかったのか。それなら最近の言動で納得のいくことが色々ある。

耳も片方が全く聞こえなくなったと言う。

 

「じゃ、行くね」と、目の前で投げキスをすると、父が不器用に真似をした。

マッタク、不器用な男なんだから。

         って、おめー(私)もな。