ニュージーランド

 

<ニュージーランド、行きの飛行機>

 私がニュージ−ランドに行ったのは、1988年の3月5日

 

その頃は、どういう訳か行く前に免税店で酒やら何やらの買い物をしてから飛行機に

乗り帰国してからそれを受け取る決まりだった。

 夜の8時半、成田から東南アジア・トラベルセンターでの飛行機が出発した。

3時半に八重洲口に集合してから、5時間が経っていた。

 ゴーゴーというエンジン音の中で、食事をしたりトイレに行ったりして、夜中になると

照明が落とされた。

 眠れない私は映画を観ることにした。怖い映画だった気がする。

そして、2時位の時だったと思う。

 突然飛行機が揺れ出した。

エアーポケットに入ったのかと思ったが、揺れが続き、急に落ちる感じが始まった。

 それまで、封印していた不安が一気に出てきた。

1981年、8月22日、向田邦子氏が台湾取材の旅行中墜落事故で亡くなっている。

1985年、8月12日、日航ジャンボ機が墜落した。

 まぁ、関係ないが、向田氏と私の誕生日が同じで(宇野千代氏も)そのエッセイが

大好きで殆ど読んでいて、その中に「自分は片付けや整理整頓が苦手で飛行機に乗る時、

この状態で出かけて若し飛行機が落ちた時、あの向田がこんなにだらしなかったのか。

と言われるんじゃないかと思って、少しも片付けていくか。と、思う反面、

普段やらない片付けなんかをして飛行機が落ちたら、やっぱり、そんな普段やらないこと

をしたからか。と言われそうな気がして、私は出掛ける前に片付けるか片付けないかで

毎回迷う」というようなことを書いていたことを思い出した。

 日航ジャンボ機が墜落した日の明け方には、ブンブンと羽虫のように飛行機が飛び交い

ドカーンドカーンと腹に響くような音を立てながら飛行機が落ちる夢を見た。

 その後、落ちる飛行機の中の映像やその時に書かれた家族へのメモをテレビで見ていた。

 

 そうだ、家族への手紙を書いておこう。臆病で大袈裟な私は思った。

その頃は持っていた女物のバックから手帳を出そうとすると、免税店で買った口紅が、

床に落ちて転がった。

 お土産にしたり自分がつけようと思って買った物だった。

あっ、何処かにいっちゃう。と思った瞬間、飛行機が落ちたら、この口紅をつける人は

居ない。と、実感した。

 手帳に「お母さんは幸せでした。もし、何かあっても、悲しまないでください。

これは、神様が決めたことです」と書いた文字が震えていた。

 夫と子供が晩御飯を食べている映像が、浮かんだ。

テレビにテロップが流れる。

『飛行機が、墜落しました』

「おい! これ、お母さんが乗っている飛行機じゃないか!?」

そして、大口を開けて泣きだす子供たち。

 

飛行機は揺れ続け、頭の上の荷物入れが開き機内食を運ぶワゴンが、ガタガタ言った。

そこに、声を出す人は一人もいなかった。

その頃飼っていた犬のエルは、毎晩私と一緒の布団に寝ていた。

私が居なくなったらエルは誰と寝るんだろうか。

これで飛行機が落ちたら、まだ誕生日が来ない私の享年は33歳になるんだろうか。

やっぱり厄年だったんだね。と言う人がいるだろうな。

そういえば、義姉が亡くなったのも厄年だった。

4歳と6歳の子を残して、どんなに心残りだったろう。

飛行機の現在地を示す画面を見ながら、まんじりともせずに空が明るくなって来た。

5時位になってようやく揺れがおさまり、9時半にオークランドに着いた。

飛行場に着いた時、機内には拍手が起きていた。

 

 明け方に隣の椅子に座っていた若い女性に

「こんなに揺れることってあるんですか?」と聞かれた。

私が飛行機に乗って、そんな揺れにあったことなど一度もなかったが、その娘が

怖がらないようにと

「うん、たまにありますよ」と私は言った。

到着してから、娘と反対の席に居た90歳の婦人(アラスカに行った時は、あまりの

寒さに飛行機から出た途端、べっ甲の眼鏡がパキンと割れてレンズが落ちたという

百回以上は海外に行っている人)に

「こんなに揺れたことってありますか?」とあの娘のように、私は聞いていた。

そして「ないわね。今度ばかりはこれで終わりかなと思ったわ」と言うのを聞いた時、

そりゃ拍手も出るはずだ。と思った。

 

<ニュージーランド到着>

 ニュージランド1ドル、88円

気温16℃〜20℃

南半球は夏と冬が逆だということで、日本は冬から春夏に向かうその時期に、出かけた

翌日、夏日が冬日に変わった。

太陽は南の空でなく、北の空を渡り、家は北向きに建っていた。

水の流れも逆になるので、風呂の水を流す時に見てくださいとのことだった。

 日本ように歯ブラシ、歯磨き、寝巻、スリッパが、ホテルに備えられていないという

ことで持参していた。

オークランドからワイトモ、ロトルア、クライストチャーチのマウントクック、

アカロアなどをまわり、牧場、土ぼたるの見学、マオリのショー、市内観光、キューゥイ

(鳥)、織物工場見学、そして、一般家庭に寄せてもらった。

 

 飛行機でのダメージからか、私は下痢になって難儀した。

だって、平坦な牧場が延々と続き、休憩所がないんだもの。

 広大な牧場には、驚くほど沢山の羊や牛が居た。

でも、32年振りの豪雨ですごい数の家畜が流され死んだということだった。

 

<マオリ人>

 先住民族であるマオリの人の話が興味深かった。

天敵の居ない楽園だったニュージーランドの鳥も動物も平和で大人しい。

 同じように平和で争いのなかったマオリ族の所にヨーロッパ人が入って来た。

そして、土地を自分たちのものとしてしまった。

 9世紀にポリネシア人がやって来てマオリ人となった。っていうけど、

ホント、ハワイのカメハメハ大王の一族って感じ。ハナ肇にソックリな人が居た。

1642年にオランダからタスマンがやって来て、新しい海の土地という意味の

ニュージランドと名付けたらしい。その後も、色んな名づけ方があったみたいだけど。

1769年、イギリス人のクックが調査に入る。

その後、ヨーロッパ人の捕鯨遠征が始まって、移民が流入する。

アメリカのインディアンのように、土はみんな(人間だけでなく動植物も)のモノで、

そして、神のモノだと考えるマオリの人達は、住んでいた所から追い出されていった。

同時に酒たばこ、病気も持ちこまれ、それまで無菌状態だったマオリ人は病気で

激減していく。

そこで、マオリを保護する政策がとられ、第二次世界大戦で協力して勇敢に戦ったこと

から移住してきた人たちと信頼関係を結ぶことになる。

 端折って書いたが、マオリの人の生きる哲学みたいなものがある。

居場所がなくなって犯罪を犯すようになったマオリの若者が次々と刑務所に入った時。

マオリの老婦人が、マオリの誇りを教えた。

刑期を終えたマオリの若者で、そこに戻る者はいなかった。

 

<地熱発電>

 ニュージーランドと日本は火山国で似ている。

でも、ニュージーランドに原子力発電所はない。

 では、何で発電しているか。

70%が風力水力その他。の自然エネルギーなのだが、地熱発電が13%を占めている。

 皮肉なことに、ニュージーランドで地熱発電に使われている機械は日本のメーカーが

一番だという。

 

 それに比べて日本の地熱発電は、0、3%

日本は世界でも3位の地熱を持っているらしいのに。

 地熱発電は、その場所が、国有地であったり温泉地の人達の理解を得なければならない。

最初に時間とお金が掛かるなどの問題もあるが、何年かしたらランニングコストは

火力発電より安くなり、CО2も出ない。

 ニュージーの地熱発電には、マオリ人の理解が不可欠で、それに対しての丁寧な説明や

雇用という形で参加しているらしい。

 

 江戸時代の話で、川に小判を落とした侍が、落とした小判の何倍もの謝礼を出して

その小判を拾わせる。という話がある。

 まぁ、そこに自分の小判を拾った風に見せかけてばれる。などというオマケもつくが、

国の財産を無駄にしてはならない。と侍は言う。

物を大事にして直して使うより、新しい物を買った方が安いこともある。

計算高い合理主義は心を貧相にし、一見役に立たない無駄と評価されるものを排除して

いく。

発言力のある強い者優先の世の中は、弱者の居場所を片隅に押しやっていく。

その時、強い者の心が壊れ始める。

 

 話が逸れたが、今回の地震があったことで、本当の安心と安全とは何なのか?

に目を向ける人が出てきて、「だから言ったでしょうよ!」と言いたい気持ち満載になった。

 でも、今までは、話しても通じないそうにない人には、話さないできちゃったんだな。

だって聞く耳を持たないんだもん。

 

<今で、今が良かった>

以前、悩みを持って県外から通って来る人が居た。

その人がキリストの教えに出会い教会に通うようになって、心が平和になった。という。

 それを知った娘が

「だから、言ったでしょうよ!だから、もっと早く行けば良かったのよ!」と怒った。

というのを聞いて

「その娘さんに伝えて。

『今、出会えてよかったね。今までの迷いがあったから、

今、深く分かることが出来たんだね』って

『もっと早かったらと悔やむ気持ちは、

今、キリストの教えに出会えた喜びを半減させるんじゃないかな』って娘さんに伝えて」

とその人に言ったことを思い出し、自分もその娘と同じだ。と、気が付いた。

人を心配し良くなることを願って「もっと早く気が付けよ!」と、ずっと腹を立てて

きたが、そうか。

あれだけのことが起きたから、みんな気が付きはじめた。今が、その時だったのか。

…。

 そう思ったら、心が穏やかになった。

 

<私情を捨てて、心を一つに>

浜岡原発の停止が決まった。

自然エネルギーで理想的なエネルギーを。という声が上がっている。

それを理想に終わらせず実現に向けて出発して。と切望する。

 

 豆腐を作った時に出るオカラの処分に大変なお金が掛かるという。

でも、それを利用してガソリンが出来るらしい。

 その方法を開示して無料で教える人が居る。

「良いことは、世の中の役に立つことは、一人占めしたり金儲けを考えずに公開します」

と、その人は言っていた。

 何の話だっけかな、原爆が落とされて、「こりゃ、大変だ。隣組の〜に知らせろ!」

とヤクザの親分が言う。

 「えっ、〜とは、敵同士じゃありませんか?」と、子分。

「何言ってんでぇ、この天下国家の一大事に敵も味方もあるもんかい。

こんな時に手を組んで、力を合わせなかったら、男が、イヤ、人間が廃る」

 てな話があった。

そうだ!

 今は、天下国家の一大事。

心を一つにする時だ。

 

 「原発は廃止しようよ」と、話した時に「出来ないだろう」と言う人は多い。

私は、出来ない理由を探すより、出来る為のアイディア、案を出すべきだ。と思う。

 そして、実行していく。

その結果、出来るか出来ないかは、神様の領域で神様が判断を下す。

人間は、出来ることを、誠心誠意、心を込めて行っていけばいいんだ。と思う。

 

<美しい国を守るニュージランド>

ニュージーランドは、フランスがニュージーランドの近くの海で核実験をしたことに

大反対をした。

 ニュージーランドに行った時、空気のキレイさに驚いた。

バスの中は完全禁煙で、甘くみていた日本人が、たばこに火を点けようとしてバスから

引きずり降ろされそうになった。

「脅しじゃないんですよ。やっていけないことは、許しません」と、そのバスの運転手は

言った。

 空気がキレイだから、雨水用水が出来るニュージーランドでは雨が降って洗濯物が濡れ

ても濯ぎ直しをする必要がなくそのまま干して乾かす。

 小雨が降る中を走る人を見たが、それもニュージーランドの雨がキレイだからだった

のか。

日本だって、明治時代までは雨水を飲料水にすることが出来たらしいのに。

それが、なんて空気を汚してしまったんだろう。

 ニュージーランの家庭訪問をしてその家で出来た果物を、洗わず皮ごと食べた。

美味かった。

 そこの人が言った。

「ボクは日本に着いた途端ノドが痛くなるんだ。

どうして日本人は、あんなに自分の暮らす所を大事にしないんだ?」

 そこの居間には、日本酒の空き瓶が飾ってあった。

彼は、日本酒を愛する日本が大好きな人だった。

 

<帰国>

8日間の旅を終えて飛行機が成田に着いた時、ニュージーランドに到着した時よりも

大きな拍手が起きた。

 

 帰国して1カ月もしない頃だった。

私達が行く筈だったが、強風で中止になった氷河見学のヘリコプターが墜落した。

 あれからだな、子供たちに、私が居なくても生きて行けるように。と強く思うように

なったのは。

 

<地震、そして、アイラブ、ニュージーランド>

 2月22日、ニュージーランドでM6、3の地震があって、この話を書こうと思って

いたら、3月11日、日本に地震が起きた。

 

 私は、ニュージーランド産の物だと、肉でも、果物でも、安心して食べることが出来る。

そして、太古からの教えを守るマオリ人が、大好き。

 

 そして、夫は、容姿も生き方もマオリ人に似ている気がする。

って、結局、のろけか〜い!