お墓参り

 お彼岸の入りで、お墓まいりに行った。

前日に次女が帰郷していたので、夫と次女と私の3人で出かけた。

長女は仕事が入っていた。

 

 今は元気な私の両親が入る、いずれ私たちが入る魂入れをしたお墓と、昨年亡くなった

夫の父の入っているお墓に行った。

 青空には白い雲が浮かび、土手には菜の花が咲き乱れていた。

 

 ある人にその話をすると「先祖を大事にしないと出世出来ないんだってよ。先祖供養と

お墓参りは大事だってH先生が言ってるから、お墓参りに行かなくちゃね」と、言った。

 

 あー、また、出世するため、良いことがあるために墓参りをするのではないという話を

したくなった。

 

先祖供養について、一言いいたい。

先祖を大事にするということの初めは、自分を大事にすることだ。

自分を大事にすることとは、自分を労わることは勿論だが、自分を甘やかして嫌なこと

から逃げさせたり、欲を野放しにして好きなことばかりをして良いということではない。

心を込めて仕事をし、周りを大事にすることで自分が満足して自信の持てる生き方を

するということが、自分を大切にするということの第一歩なのだ。

 自分は、先祖から繋がってきている。

そして、先祖は自分から始まっているともいえる。

先ずは、自分が幸せであることが、先祖の幸せであるということに気が付くべきだ。

今、自分の心の中に“ワダカマリ”はないか?嫌なことはないか?痛みはないか?

あったとしたら、それは“お知らせ”だ。

 何故それが起きているのか?そのことを考えて、原因を追求し、対策を見つけ出して、

更に行動に移していかなければならない。

その為に“痛み、ワダカマリ”があるのだから。

 痛みは、ワダカマリは、癒されるために存在する。

 

 自分の本当の幸せ(形ではない、安心と満足)の次にというより、同時にある先祖供養

は、親孝行。親は一番身近な先祖だ。

 とはいっても、親の顔を知らない子や、親の資格を持たない親もいる。

その自分の子の顔を知らない親や、その資格のない親にとっても、自分が人としての道を

真っ当に歩み、真の幸せを掴むことが、総ての軌道修正になる。

 その親の現状が、人を蹴落とし、騙しても人より上になれというような考えを持ってい

たり、自分にとって都合のいいものだけを摂りたてるようなステージに生きる者であると

したならば、やはり、自分が目覚め人の道を歩むことが、真の親孝行となるのだ。

 先祖の分岐点が自分であり、最初の先祖が親であるように、子供は子孫の初めだ。

甘やかさず、大切に育てる。

 月が充ちると書いて育つとなる。親は、子を育(はぐく)む。

 

 身近なモノに敬意を持たず、失礼な真似をするような者が、いくら墓参りをしても、

いくら立派な墓を建てても、何の意味もなさない。

 他所にいい顔をして家族を泣かせたり、弱いものを虐めて金儲けをして立派な墓を作っ

ても、また仕事や生きることを疎(おろそ)かにして墓参りにばかり力を入れても先祖は

喜ばないだろう。

 

 私の墓参りは、今の自分の報告と見直しに行く。

今、自分はこうして生きています。

この生き方でいいのですか?

            今の私の生き方は、先祖の供養になっていますか?