オカアサマ

 

 紫とピンクの雲がオレンジの光に包まれながら、家や立ち木を影絵にしていく春の日

の夕暮れだった。

「ちょっとコーヒーでも飲む?」と山小屋に誘ったその人、マチコは、面白そうな感じが

した。

 一人で暮らしているというマチコは、私より年上だった。

夕日を背にして座ったマチコの横に淹(い)れたてのコーヒーを置くと、西側の窓の下に

置かれた彼女のバックが目に入った。

「あら、面白いバックね」

 それは、アジアの山岳民族が作る生地で作られた物のようだった。

「えぇ、これはオカアサマが下さったの」

 

 “オカアサマ”という言葉が、40年前に3年間通ったピアノ教室を思い出させた。

高校に入る頃、私は保母になりたいと思っていた。

そのタメには、資格を取れる短大に入る必要があり、その短大入試にはバイエルの

100番まで弾けることが条件だった。

 その為、高校入学と同時にピアノ教室に通うことになったのだ。

「大きくなった子は教えづらいからイヤなんだよな」とそこのピアノ教室の男先生は

言った。

 先生の子供たちは、親を「オトウサマ、オカアサマ」と呼んでいた。

都会から来た家族らしくて気取っていると言う人も居た。

ピアノ教室は、バス停から一本横に入った道から、更に生垣に囲まれた細道を通る。

すると、ピアノ教室の玄関に出る。

玄関の横には自転車が停められるスペースがあったが、生垣の道も玄関も狭く雨で傘を

差していたりすると、どちらかが傘を閉じなければならなかった。

 春から通い始めて夏になった。

あの頃は、クーラーなどなくて、扇風機があれば御の字だった。

 暑い日で、練習してきた曲を先生に見てもらっていた。

そこへ、先生の子供が来た。中学生位のキレイな女の子だった。

「オトウサマ、キャンディ食べる?」

「うん」と先生は言った。

その子は、棒付のアイスキャンディを持ってきた。

 先生は、たどたどしい下手なピアノを叩く私の横でアイスキャンディを齧(かじ)った。

私の記憶違いかもしれないが、痩せて都会的な先生はその時立ち膝だったと思う。

先生はこの辺の教室ではダメだからと、自分の子は電車で1時間近く掛かる町で先生が

東京から通って来るというピアノ教室に通わせていた。

 怠け者で不器用な私にとってピアノの練習は苦痛だったが、教室の待合室には漫画や

雑誌が沢山あってそれを読むのがとても楽しみだった。

 その中に園山修二の“お山のゴンベイ”があって、特に気に入っていて、大人になって

からもずっと探しているが見つからない。

小さい生徒のタメにかゴマちゃんみたいなヌイグルミがあった。元はそこの子の物で

あったであろう薄汚れたそれを抱くと、その抱き心地の良さにヌイグルミフェチの私は

手放したくなくて、初めて盗もうかと思った。(盗まなかったけど)

 

 それらのことが、「オカアサマ」と彼女が言った一言で、その時の独特の家の臭いや

スリッパの汚れまでもが一瞬のうちによみがえった。

 

「マチコさんってお金持ちの生まれなんだね。

私なんて、未だに『お母ちゃん』でオカアサマなんてフザケたって言ったことないし、

そのバックだって高級そうだし」

「オカアサマっていうのは、嫁いだ先の姑のことなのよ。

私も、もう居なくなっているけど自分の母親のことは『母ちゃん』って呼んでたのよ」

「へー、そうなんだぁ」

「そう、私見合い結婚なんだけど、世間で言ったら玉の輿っていうんでしょうね」

「へぇー」

「それも、オカアサマがどうしても私がいいって気に入ったので決まったのよ。

後で知ったんだけど、オカアサマってとてもキレイな人だったんだけど、

大事な一人息子の嫁が、自分よりキレイな人では嫌だったらしいの」

「なんじゃそれ」

「面白いでしょ。貧乏だしドンクサイし、キレイじゃなくてスタイルも良くないから

私のこと気に入ったのよ」

「へー」

「お手伝いさんも居るような家だったんだけど、嫁いで間もなくオトウサマが亡くなって、

食事を配膳してたら、突然オカアサマが拗(す)ねて怒り出したことがあったの」

「どうしたの?」

「私も最初分からなくて、どうしたのかと思ったのよ。

そしたら、一番大きな魚をダンナサマの所に置いたのが気に入らなかったのね」

「へー」

「後で気が付いたんだけど、オカアサマは何でも自分が一番良い物を持っていて、

それを自分の手から息子にやりたかったのよ」

「へー」

「でもね、それから可哀想だったの。

実は、オカアサマは子供が出来ない人で、一人息子の彼は亡くなった妹の子供だったんだ

けど、産まれてすぐに貰って、それが可愛くて可愛くて、可愛いっていうのは心配の

気持ちになって宝物のように大事に大事に育ててきたんだって」

「へー」

「あまり大事にされた人っていうのは、何処か欠けたトコがあるのかもしれないって、私

彼を見ていて思った。

そういう人ばかりじゃないと思うけど、彼は人の立場、身になって考えることが出来ない

人だったと思うの。

例えば私が茹で栗を剥(む)いていたら、最後の一つまで食べてしまうの」

「えー、そんなの普通にあるでしょうよぉ。

私の父親なんか、同じようなことでしょっちゅう母親に怒られてたよ」

「でも、それはほんの一つのことで、そういうことだらけだったのよ。

それに、私は彼に文句なんて言えなかったわ」

「そうかぁ、そこが違うんだね」

「その彼が、他所に女の人を作ったの」

「お坊ちゃまでも、やるね」

「そう、結局、お坊ちゃまだったのね。

悪い女にって、悪いかどうか分からないけど、やり手だっていう人に貢(みつ)いで

捨てられて、戻ってくればいいのに、帰ってこないで病気で死んだの」

「あちゃー、ドラマみたい」

「でしょ。

でも、一番可哀想だったのはオカアサマだったかな。

あんなに可愛がっていた息子に捨てられた形になって、結局、最後は大事に思っていな

かっただろう私の世話になって死んだんだもの」

「でもね、最後にオカアサマが言った『アリガトウ』で色んな事全部オシマイになったわ」

 

 夕闇の中の彼女は、静かだった。

オカアサマ、見る目があったでしょうがぁ。と、私は思った。