岡本太郎

 

 この度(2006ねん7月)、岡本太郎の埋もれていた壁画が東京、汐留に展示されて

いると知った。

 私の手元に、昭和30年(1955年)5月25日発行の「今日の芸術」岡本太郎著

がある。

私が生まれた次の年昭和30年5月25日に出た本で、価格は130円だ。

その15年後(1970年)に大阪万博があり、そこのシンボルとなった岡本太郎の

「太陽の塔」は有名だ。

岡本氏は、太陽の塔の前にメキシコのホテルに依頼されて壁画に「明日の神話」を

創ったが、ホテルが倒産し壁画は行方知れずとなってしまったという。

 それは、「太陽の塔」の元になる物だという噂だった。

それを、養子である岡本とし子が、渾身の想いで見つけ出し今回の展示に至ったという。

 

 私は、岡本太郎に、何か因縁のようなものを感じていた。

私が生まれた次の年に出された「今日の芸術」は、その約30年後、30歳の私の手元

へときた。

 それは、世の中に絶望を感じながら書くということである意味鬱憤を晴らし、気持ち

の整理をつけて生きてきた私のバイブルとなった。

この本を読んだ時に、岡本氏が、私と同じ魂を持つ者であると実感したと言ったら、

何を小癪な思いあがりをヌケヌケと!という罵声が聞こえてきそうな気がする。

 そして、私が30歳になるまでこの本が私の手元に来なかった、私が彼に気が付かな

かった理由には、若しかしてその前に彼の魂に出逢っていたら私の考えや感情が、

岡本氏の影響によるものではないかと思ってしまう危険があったからではないだろうか

と、そう思う位に共感を越え、私の想いそのままを「今日の芸術」は語っていた。

 そして今回、初めて岡本氏のホンモノの作品と出逢うことになった。

 

 「今日の芸術」の一部を抜粋してここに書き写す。

岡本氏の書いたそのままで伝えたいが、本を丸ごとここに書き写すわけにはいかず、

私なりに抜粋し、省略したものであることを了承いただきたい。

因みに、カッコ内は私の意見だ。

 

「今日の芸術」  岡本太郎著

一、問題点は何か

 芸術が分かりにくいのは、古い考えにわざわいされて、まだ芸術を分かりにくいものと

して敬遠し、他人ごとのように考えている人があります。

私は、この総ての人びとの生活自体であり、生きがいでもある今日の芸術にたいして、

ウカツでいる人が多いのがもどかしい。

これは、なんといっても一般に、「絵とは、こういうもんだ」という固定観念がしぶとく

食い入って、純粋、素直な鑑賞をじゃましているからにちがいありません。

 偏見だとか固定観念などを持っていないと思っても、じつは大人になるまで目にふれ耳

にしてきたすべてが、知らず知らずのうちに、ぼう大な知識、教養になっているのです。

それらは物事にたいして目をひらく力にもなっています。

しかしその反対に、ものを自分の魂で直接にとらえるという自由で、自然な直感力を

にぶらせていることもたしかです。

 だから花というと、ろくすっぽ見もしないで、「きれいだ」と合言葉のように言ってしま

ったりします。

(そーなんだよ、だから有名なものは良いものだという固定観念で、そのモノとちゃんと

自分の感覚で向き合おうとせず、本に載ったから美味しいんだと思い込んだり、作家物の

焼き物だと思っていたときに丁寧に扱っていたのが、それが無名の人の作であると分かっ

た途端に、乱暴にそこに置くということになる。

有名でも無名でもその作品には関係ないことなのに、見る目がないからそういった、

〜だからというものに振り回されてしまう)

それが、〜はきれい。哲学は難しいものだ。芸術は、最近の絵は分からない。という

思い込みとなり壁になっているのです。

 だれでも、その本性では芸術家であり天才なのです。ただ、こびりついた垢におおわれ

て、本来のおのれの自身の姿を見失っているだけなのです。

その垢、よけいな凶作物を切り取ることが急務であり、この本で問題点を明確に取り上

げ、あらゆる角度から不純な固定観念をぶち破っていきましょう。

(そう、だれでも、その本性においては天才なのだと私も思っている。

だからこそ、その垢を取り去ることが、そう生きようとすることが大事なのだと思う。)

 

二、分からないということ

 芸術は、分からない難しいというが、分かる、分からないという問題ではない、

偏見でそう思い込んでいるだけなのです。

「符牒(ふちょう)の魔術」

当たり前として誰もが疑わないキマリきった、型どうりの画材(モチーフ)としての存在

富士山の絵、鯉の滝のぼり、竹の雀、竹、松、達磨、家を建てれば要不要にかかわらず、

必ず床の間という型どおりの場所をもうけます。

 この類の符牒で、格好がついた気になるというわけです。

はじめから鑑賞などということは、どうでもよいらしい。

自分が好きだから、とか、ほしいから、とかいうのではなく、世間体と見栄だけで環境を

つくる。生活自体が、おのれ自身の生きた現実を土台にしていないのです。

(そうなんですよ。自分の心に聞かないで、人が良いというから、みんなが認めている

から、そう決まってるから、と自分自身を主体にしない思い込みで生きて、鑑賞せず

本当に見ないでいることが、普通といわれる人たちの考えのような気がします)

この惰性的な、実質をぬいた約束ごと、符牒だけで安心している雰囲気は封建日本の

絶望的な形式主義です。

(そこには、その人の趣味趣向や考えのない、ただの損得勘定によるエコヒイキの感情

が渦巻いているような気がします)

 その延長線上に今日の芸術が存在しており、小ずるく型を利用する封建的な、

功利主義的な根性、退屈な非本質的な生活が、その非芸術と共に暗く重い煤煙のように

日本の全土を覆っているのです。

 だが、この根性はもうこのへんご破算にしなければなりません。

いかに泥くさくても、みにくくても、自分じしんの生活の土台から、すべてをつかみとり

押しすすめてゆくべきです。

(裸の自分に向き合い、付き合っていく腹を決める。腰を据えてじっくりと自分も物事も

見据える気持ちと目を持つ。そこからが、本当の人生の始まりだと私は思います)

 

「抽象芸術」とは、

何が描いてあるのか、どんな意味があるのか、というような質問自体がなりたたないの

です。

芸術はナゾナゾではない。だからよけいな“絵とき”などは止めにしてすなおに画面

そのものにぶつかって見て、そこから直接的な感動をうけとめれば、よいのです。

あらゆる偏見を捨てさって、あなた自身がすきか、きらいか、深くひきつけられるか

どうかが問題です。

「超現実派」

固定観念から、おのれを解放するためには、強固な意志と、適切な方法が必要です。

超現実主義者たちは垢を取り去ろうとして、いろいろ試みました。

そして、夢や狂気の世界などに、常人よりもっと純粋な人間像、精神世界の本質を

発見したのです。

フロイトの精神分析学説が、それらの領域に新しい照明を投げあたえました。

常識、固定観念、処世術などにしばられている人間は、多かれ少なかれ、みな無意識の

うちに表面をつくろい自分じしんをおさえています。

芸術の対象は、その不自由な偽りの衣をぬぎすててしまったところにあるはずです。

たとえば夢の世界、さらに、あらゆる民族文化の背骨になっている神話、伝説は全部が

非現実的です。

(ユングの普遍的宇宙意識、民話や神話の中に人間の思考の原型があると臨床心理学者、

河合隼雄はいう。

南方熊楠の民俗学で地球規模での民話、神話、伝説の中に流れる非現実な話の類似性

について興味を示している。私は岡本氏の絵の中にも、それを感じる)

 

「鑑賞と創造の追っかけっこ」

絵は、ラジオで評判のクイズのように、隠された答えをあてるために見るのではありま

せん。

白紙でどんどんぶつかってゆき、それによって古いおのれを脱皮し、精神を高めて

ゆくべきです。

 すぐれた芸術家は、たくましい精神で、つねに前進し、新しい創造をしています。

当然それは持ち合わせの常識では、ただちに判断できません。

自分のつねに固まってしまう見方を切りすて切りすて、めげずに、むしろ相手を

のり越えていくという、積極的な心構えで見なければ、ほんとうの鑑賞はできません。

 

三、新しいということは、何か

「その二つの意味」

新しいというこの言葉の使い方に、ひじょうな混乱が見られるのです。

一つは、無条件に清純で、ちょうど酸素のように、それがあって、はじめて生きがいを

おぼえるような、明るい希望にみちたものです。

ところで、また、これが逆によくない意味で使われることがあるのはご存知のとおり

です。

つまり、また、無条件になまっちろくて未熟、確固としたものがない、軽佻浮薄の

代名詞にもなるのです。

新しい、若いということを、ただそれだけで誉めたり貶したりしていながら、芸者など

に「おにいさん」と呼ばれると、けっこうヤニさがっている。

若さこそ二度と取り返せないもので、若いというだけでその風俗が気になるのは、

それにたいする絶望的な一種のやきもちであり、ひがみ根性だと考えるべきです。

「近頃の若者は…。」などと、かりそめにも言いたくなりだしたら、それはただちに老衰の

初期症状だと考えて、ゆめゆめ口には出さず、つつしんだほうがお身のためだと忠告して

おきます。

尊敬すべき老人に対しては、やや苛酷で乱暴なものの言い方をしたようですが、しかし

私がここで年よりというのは、けっして、たんに年齢的な意味ではないのです。若さとい

うのは、その人の青春にたいする決意で決まります。

いつも自分じしんを脱皮し、固定しない人こそ、つねに青春をたもっているのです。

くれぐれも肝に銘じてほしいのは、年功が無意味であると同じように、また、たんに

年齢的な若さも、けっして特権ではないということです。

(私がずっと思ってきていること。若いということと、幼いということは違う。

大人であるということと、老けているということも違う。

若々しい、みずみずしい大人になりたい!)

 

「美術史はくり返さない」

芸術は、常に新しく進み続けていくものであり、芸術は創造です。

だから、新しいということは、芸術における至上命令であり、絶対条件です。

固定した約束はなく、あらゆる時代にそれぞれ異なった形式と使命をもっているので、

芸術形式の絶対性とか普遍性などというものはありえないのです。

 

「芸術は心地よくあってはならない」

 なぜ心地よくないのか?

すぐれた芸術には、飛躍的な創造があります。

時代の常識にさきんじ、まったく新しいものを、そこに生み出しているわけです。

そういうものは、かならず見る人の一種の緊張感を強要します。

 なぜかと言いますと、見る人は自分のもちあわせの教養、つまり絵にたいする既成の

知識だけでは、どうしてもそれを理解し判断することが出来ないからです。

そこになんとなく脅かされるような、不安な気分さえあります。

すぐれた芸術家は、はげしい意思と決意をもって、既成の常識を否定し、時代を新しく

創造してゆきます。

それは、芸術家がいままでの自分じしんも切りすて、のり越えて、おそろしい未知の

世界に、おのれを賭けていった成果なのです。

 そういう作品を鑑賞するばあいは、こちらも作家と同じように、とどまっていないで

駆け出さなければなりません。

だが、芸術家のほうは、すでにずっとさきに行ってしまっているわけです。

追っかけてゆかなければならない。

どうして、こういうものを描いたんだろうー、

どうして、こうなったんだろうということを、心と頭、全身で真剣に考え、その距離を

うずめてゆかなければならないのです。

創作者と同じ緊張感と覚悟を持って、逆に向こうを乗り越えてゆくという気持ちでぶつ

かっていかなければ、ほんとうの芸術は理解でき得ない。

 

「芸術はいやったらしい」

だから、このような激しさをもった芸術、分かる・分からないということをこえて、

いやおうなしに、ぐんぐん迫って、こちらを圧倒してくるようなものは、いやったらしい。

と岡本氏は言い、ピカソや当時のゴッホを例に挙げる。

しかし、本物だからこそのショックと気持ちの悪さ、不快であるのです。

そして、現在のゴッホはいやったらしさを感じなくなっています。

それは、時代がゴッホを乗り越え前進してしまったからであるのです。

 

「芸術は“きれい”であってはならない」

芸術は、形のキレイさとは違う美しさでなければならない。

キレイと美しいは質的に違うのです。

ゴッホは美しい。しかし、きれいではありません。ピカソは美しい。

しかし、けっしてきれいではないのです。

 

「芸術は“うまく”あってはいけない」

 きれいであってはならない。と同じ意味で芸術はうまくあってはならない。

(私はここで、一茶が言った「食べたくないのは、料理人の料理」という言葉を思い出し

た。)

芸術の力とは無条件なものだということです。

これからの芸術は、“自覚的”にそうでなければならないのです。

 

「うまい絵を描こうとする間違い」

「デタラメがなぜ描けないか」

うまく描こうとしたときにモノマネにになり、デタラメに描こうとしたときに自分の

ものになる。

ほんとうの自分の力だけで創造する、つまり、できあいのものにたよるのではなく、

引き出してこなければならないものは、じつは、自分じしんの精神そのものなのです。

 鉛筆と紙さえあれば、馬鹿でもチョンでも描けるものが、どうして描けないとか描ける

とか、ややこしい問題になるのでしょうか。

描けないというのは、描けないと思っているからにすぎないのです。

うまく描かなければいけない、あるいはきれいでなければ、などという先入観が、たとえ

でたらめを描くときにでも心の隅を垢のようにおおって不自由にしているからです。

うまかったり、まずかったり、きれいだったり、きたなかったりする、ということに対し

て、絶対にうぬぼれたり、恥じたりすることはありません。

(まさに、その通―り!)

あることが、ありのままに出るということ、まして、それを自分の力で積極的に押しだ

して表現しているならば、それはけっして恥ずかしいことではないはずです。

見栄や世間体のつくろいなどで自分をそのままに出すということをはばかり、自分に

ない別な面ばかりを外に見せているという偽善的な習慣こそ、すでに時代遅れです。

自分を実際より大きく見せたがったり、実力以下に感じて卑屈になったり、自己防衛

本能から安全のカラの中に入って身を守るために、低くみせようとするところから、

自他ともに堕落させる不明瞭な雰囲気がでてくるのです。

 路傍にころがっている、石ころとか木の葉がある。

そこにそのまま、ただ“ある”ということが大切です。

(はい)

兎に角、芸と芸術の区別が、わが国の芸術の権威者たちにはみじんもわからないらしい。

ピカソは最初からピカソであって、ピカソになったのだ。

 

ピカソじしんが言っています、「私は日ごとに、“まずく”描くことによって救われている」

と。

 

 私は謙虚というものはそんな、人のまえで、おのれを無にするとか低く見せることでは

絶対にない、むしろ自分の責任において、おのれを主張することだと断言します。

つまり、謙虚とは権力とか他人にたいしてではなくて、おのれにたいしてこそ、

そうあらねばならないことなのです。

(あー、

自分を卑下してみせることが謙虚だと思い込んでいる人のなんと多いことか…。)

 

「らしくということ」

海外から日本に来た観光客が求める“日本らしさ”などのらしさ。

だが、この「…らしく」が“くせもの”です。それは無責任な旅行者の言い分であって、

そこに生活している人間にとっては何の意味もない、むしろ迷惑な言いがかりあるに違い

ありません。

他所の勝手な思い込みと、都合によって求めるのは自由だが、それによって当の本人が

それに引っかかって、現在生きている自分という大切なものを正しくもり立ててゆくこと

を忘れ、現実から浮いた“虚実”に仕立ててしまうとしたら、こんなバカげたことはない。

 

われわれは今日、はるかに猛烈な超近代意識をもって、まちがった伝統意識を切りすて、

自分たちの責任において新しい文化を創りあげてゆかなければなりません。

と、岡本太郎は最後を締めくくった。

 

2006年7月19日、朝、歯を磨いていたらもうすぐ夏休みだと気が付いた。

「ゲッ、夏休みに入ったら東京が混む、岡本太郎の壁画も混雑するのではないか!?」

小雨が降り出したが、今から出掛けると家人に宣言する。

駅まで送ってもらい電車に乗る。

ポケットには、現金少々と岡本氏の「今日の芸術」のみ。

知り合いと会う

「何処に行くの?」

「東京」

「何の用事で行くの?」と問われ

「岡本太郎の壁画を見るタメに」と言うと

「偉いねー。凄いねー」を連発する。

壁画を見ることは偉くて、凄いことなのか?

電車の中で本を読む。何度読んでも新しい。気持ちが高揚して眠くなって寝る。

新橋の汐留方面に出ると、日本テレビのビルの横にあるということだった。

「ヨッシャー」我ながら面白いほど元気だ。

駅の柱には「なんだ・これは・べらぼーで・もーれつで・とんでもない」と書かれた

ポスターが貼られている。

なのに、中々その場所が見つからない。

作業をしていた男性に聞いたが分からないという。

日テレのビルに登ってみる。

雨にぬれるガラスから、ポスターは見えるが、特設会場とやらは見えない。

もう一度エスカレーターで下に降りる。

日テレのアナウンサーを、何人か見かける。

ウロウロしていると、ビニールの雨具を着た警備員らしき人発見。

「岡本太郎の壁画は何処ですか?」

「あー、今日は雨のためクローズです」

「はー?!」

「雨から守るために、今日は閉めているんです」

指差す先には、冷凍庫の前に下るビニールのカーテンのようなものが、壁を覆っていた。

「ひぇー!」

思い入れが強すぎると、こういうことになるんだな。

その日は、東京の子どもの家に泊まる。

 

 翌日(7月20日・木)曇り空。

午後から雨の予報。

11時から19時までが展示だという。

9時過ぎに到着。雨が降らないことを祈り、コンクリートの仕切りに座り、本を広げる。

気持ちを静めながら熱くなっていく。

傍に立つ学生に、「岡本太郎っていいよね」と声を掛けたが、

「はー、そうですか?」と気のない返事。

ここで、そいつが岡本太郎の信者だったら、語りだしてしまうところだった。

その人が岡本氏についてあまり知らないようでよかったと思う。

っていっても(若しかして凄いファンだったりして)

コンクリートの上を渡って来たチワワが、本を読む私の横に座る。

飼い主は、5メートル程離れた所にいるが、何も言わない。

私は、本を読みながら黙って犬の頭を撫でた。犬は、段々調子にのって膝に乗ってくる。

30分位すると、飼い主は、犬を抱えて何処かへ行った。

本から顔を上げずに、犬を見送る。

こっそり見ると、犬の飼い主は、茶髪の細身の中年男性だった。

彼も私も一度も言葉を発さず、目も合わさなかったことが、妙に嬉しかった。

 

11時

ビニールの覆いが開かれる。

離れて見る。

近寄って見る。

端から見る。

全体で見る。

歩きながら見る。

舞台の上に上り至近距離でも見ることが出来た。

涙が出た。

 

  先入観や知識を持たずに、対面するということは、私の生活信条だ。

テレビや前説はなるべく見ない、聞かないようにして、壁画に会った。

 

日本最大!幻の壁画が完全復活!世界初公開!!

 いまから37年前の1969年、岡本太郎は「太陽の塔」の製作を進める一方、

メキシコで巨大壁画「明日の神話」(縦5.5メートル、横30メートル)を完成。

しかし、岡本芸術の最高峰として脚光を浴びるはずだったこの「明日の神話」は、

不運にも完成後に人目に触れぬまま行方不明になり、2003年にメキシコ郊外で

やっと発見されたときには大きな損傷を受けていた。

昨年2005年春から日本への移送と修復が進められ、この度ついに修復完了。

描かれているのは、核が炸裂する悲劇の瞬間だという。

でも、この作品は核の悲惨さを伝えるだけの絵画ではない。

「人は忌まわしい惨劇をも誇らかに乗り越えることができる。そして、その先に

明日の神話が生まれるのだ」という岡本太郎のメッセージが込められているのです。

37年のときを越えて再生した「明日の神話」を、どうぞ全身で体感してください。

と、その後に読んだ説明にあった。

 

 甦った、「明日の神話」 今、この日本に再生した意味は…。