男孫 (ムカドン)

 

 去年、ムカドンに男孫が出来た。

子供は、“授かりもの”だ。などというが、正しくは“預かりもの”だとムカドンは思っ

ている。

 そして、欲しかったらそれなりの努力はするが、努力をすれば出来るのが当たり前と

いう考えは思い上がりで、感謝即ち、シアワセの道から遠ざかる。

 江戸時代の哲学者が、「枯れ木に花が咲くを驚くなかれ、生木に花が咲くを驚け」と言

った。

お百姓は種を蒔いたら出るのは当たり前ではないという、漁師は海に出たら何かあって

当たり前、無事に戻れなくても当たり前、魚が獲れなくても当たり前、そこには神のご

加護と気まぐれな采配、運が付きまとっている。

彼らの信仰心、感謝は「生木に花が咲くを驚く」という当たり前のことを理屈や言葉

でなく身を持って識っていることで与えられているのではないだろうか。

 

 それにしてもムカドンの身内に男孫が来てからムカドンのムカムカは治まることがない。

「ようやく男の子が出来たの、良かったわね」(ようやく?)

「何っていったって、男の子は一人くらいは居なくちゃね」(くらいー?)

「男の子で良かったわね」(で、で?、でっちゃなんだ?)

「男の子は格別でしょ?」(はぁ〜?)

「やっぱり男の子がいなくちゃダメよね」(何がダメなんだ!)

「これで、あなたも安泰ね」(…)

 

「やっと男の孫が出来て良かったでしょ、鼻高々でしょ」と言う人あり。

「何で?」

「だって男孫が産まれたら嬉しいでしょうよ」

「まあ」

「カッコつけないでよ。誰だって子供や孫に男と女の子が欲しいのよ」

「へぇー、そうなんだぁ」

「そうよ、せっかく生まれたんだから両方育ててみたいでしょうよ」

 (出ました“せっかっく主義”)

 誰だって、と言うその人の頭の中には、僕のような男でも女でもいいし、居ても居な

くてもいいし、結婚してもしなくてもいい。という気持ちは分からないのだろう。

 男だったらこう思う筈、女ならこうしたい筈。という自分の欲望を誰だってそう思う筈

という投写によっての思い込みと押し付けを、僕は嫌悪する。

 結婚を拒否する人が居る。自分の性に違和感を持つ人が居る。自分の子孫を絶対に残

したくない、自分の存在は今生で終わりにしたい。終わりにする。という人がいる。

 ことを、知らないのだ。

 

「みんな欲しい筈よ」

「欲しくないなんて負け惜しみよ」と言う部類の人達は何を言いたいのか、以前から

「男の子の方が可愛いわよ」

「男の子の方が優しいわよ」

「男の子を産むとオジイチャンオバアチャンの態度が違うわよ」と言う言葉は、

ムカドンの気持ちを逆なでしてきた。

「男の子を持ったら考えが変わるわよ」とはどういうことか。

それは、男女の違いで態度を変えるような人間とセットで存在する。

そういうタイプの人をよーく観察してみると、負けず嫌いで、戦い好きの顔が見える。

 自分の手にしているモノが一番でそれを自慢したくてたまらない。

それを一番いいものだと他に示し、納得させ、負けを認めさせたい。

 面白いことに、そういう輩(やから)は、嫉妬、ねたみ、嫉(そね)みが強く、人を

支配したくて、その気持ちを御しきれないでいる。ように見える。

 

 ムカドンは気持ちが平和で居たい。

心が穏やかでスッキリしていたら、それが一番のシアワセだと思う。

 穏やかであるということは、何もしなくて良いということではない。

日々毎日の煩悩を刈り取り、邪悪の芽(ムカムカ)を摘み取り良い(平和)思考に替える。

 マザーテレサの言葉、「思考は言葉になり、言葉は行動になる。

行動は習慣となり、習慣は性格となる。そして、性格はいずれ運命となる」だ。

 

 話していて、或いはテレビなどで人が話すのを聞いてムカドンは年がら年中ムカムカ

している。

 これは、何なんだろう?と我ながら思う。

料理番組で

「ここで油を拭き取ってあげて下さい。お野菜に味がしみ込んでくれるようになります」

と言うのを聞くと、何で「あげて」と「くれる」を言うのか! と思う。

 「ここで油を拭き取ると、野菜に味がしみ込むようになります」だろ?と思う。

「あ〜、私達を待っていてくれたんでしょうか、こんな所まで来た私達の為にあの蝶が姿

を見せてくれましたぁ〜」と大仰に話すリポーターに、

(別に待って“くれて”なんかいねーよ、蝶は誰かの“為”に出てきたわけじゃねえし、

姿を見せて“くれた”わけでもねえよ)と思う。

 そうなるとムカムカして番組の内容が耳に入ってこなくなる。

運動会に行った。

「〜君が一生懸命走って“くれて”います!みなさん応援の拍手を“してあげて”下さい!」

「最後までやって“くれて”ありがとー」と、“くれて”と“ありがとー”の大安売りだ

った。

 “くれた”と言うと優しい言葉になると思い込んでいるのか、大袈裟に騒ぎたてている

そこにドンドン覚めて行く自分が居た。(チーン)

あ〜、これ(ムカムカ、チーン)は、どーしたらいいんだ。と思っていた。

 

 先日、友達と酒を飲んだ。

友達っていうのは、276の“金の卵”に出てきたタケちゃんだ。

 時々、一緒にゴルフをしているが二人とも計画性がなくイキアタリバッタリで、それが

時々まぐれで驚くような良いショットがあったりする。それが面白くて止められない。

 我々は自分が下手だということもあるが、人のプレーやり方に口出ししない。

タケちゃんは、スイッチオン(本、文芸社)の結界に出てきた武本とゴルフに行った。

武本は、本当に困った人を助ける力がある数少ない人だと思うが、普段は情け容赦なく

人の領域に立ち入る。

 ゴルフの時も、タケちゃんのアイアンが大きいの小さいの、スタンスが違うのと

「アドバイスして“くれて”ゴチャゴチャになっちゃったんだよ」と言う。

 それを聞いて

「タケちゃんは修行が足んねえな」と俺は言った。(えらそーに)

「なんで」

「結局タケちゃんは、早くに親亡くしてアチコチたらい回しになったかしんねぇけど、

俺みたいにウルサイ母親はいなかったべ」

「うん、誰も俺のことなんか気にしねえから自由で気楽だったな」

「だっぺ。

タケちゃんは俺のことお坊ちゃんだって言うけど、タケちゃんも一回俺のような目に

あってみたらいいんだよ。

何時だって何やって手も見張られてんだぞ。そんでもってチクイチ横から口出してくんだ」

「それはヤダな」

「ヤダなんてもんじゃねえぞ。

今だってちょっと何か落としたら『勇蔵、落ちたぞ!』ってすかさず言うんだ。

電話が鳴ったら『勇蔵、電話!』って、聞こえてっるちゅうの」

「んでも、お母さんはあんたを可愛くて仕方ねえんじゃねえの」

「どーだかな、だけどよ。

そのお蔭で、耳に蓋(ふた)すんのを早くから覚えたわけよ。

だから、俺武本さんと一緒にゴルフやった時も平気だったぜ」

「でも、武本さんは嫌がってたな。勇蔵とやったら調子狂うって今でも一緒の組では回

らねえべ」

「うん、面白れえんだ。

横で色々言うのにウンウンて言いながら自分のペースでやってると自爆してくのな」

と、自分の母親もそうだったことを思い出す。

 勇蔵は決して母を自爆させようなどと思ったことはないのだが、母は思い通りになら

ない息子に一人で怒り押し付け空中分解した。

最初は自分が悪いんじゃないかと思っていた勇蔵だったが、いつしか罪悪感も同情も

なくなった。

 そして、人のことは気にしてねえで、自分のしていることに気持ち集中させろ。

と、自分に言い聞かせるようになったことを思い出した。

 

 そして、そおかぁー。

このムカムカは、人の言動に気を取られて自分の足が宙に浮いていることから来てるん

じゃないか。

 と、気が付いた。

 

 初心忘るべからず、忘れたら思い出す。ちゅうことで、

         よかったよかった。