お通夜

 

 2006年、5月4日(木)だった。

知人から「佐久間が亡くなったよ」と電話が入った。

「今日お通夜だって」

「フーン、行かないけど、知らせてくれてアリガト」

「だと思った。でも、麻子さんが分かっただけで佐久間、喜ぶんじゃないかな」

 

 佐久間君は、私の子供が小学生の頃からだから20年来の付き合いだった。

佐久間君は美容師で、私が彼の客だから普通付き合いなんていうもんじゃないかもしれ

ないし友達とは言わないのかもしれない。

 でも、私は彼を気持ちの通じる友人だと思い、彼も私をそう思っていたと信じている。

 

仕事の関係で昼食も食べられない程忙しい彼は、大きな頭のわりに細い首で板のよう

な身体で働いていた。

 彼のことをウソツキだと言う人がいた。

「あなたの頭は何処でやってるの?」と聞かれ、店の名を言うと

「あー、あのウソツキのぉ」とその人は言った。

「どうしてそういうことを言うの?」と聞くと、

「学校時代からほら吹きで有名なのよ」とその人は言った。

よく話を聞いてみると、その人の旦那が学校の先生で、昔彼を担任していたが、家で

彼の悪口を沢山聞かされたという。

 私は腹の中で(あんたの亭主が先生として生徒に対するリスペクトも愛情もない口軽

男なんじゃないかい)と思ったが黙っていた。

 その人は取り置きしていた物を平気でキャンセルしたり、自分で壊した物を最初から

壊れていたと交換に来るような人だった。

 野菜を作っていて沢山採れたからと度々持ってきたが、

「あなたは無農薬が好きで虫は平気だっていうから」と幾ら虫が平気でもそれはないで

しょうというような野菜を持ってきた。

 挙句が「ここに持ってくると何か貰えるから」と言うのを聞いて、お礼だけ言って何か

礼するのを止めた。

すると、すぐに持ってこなくなった。

 

佐久間君は、子供の部分が消えずに残っていた人だったのかもしれないと思う。

子供は大人が見えないモノが見えるらしい。

そして、空想と現実が混同してしまうのだそうだ。

それは、通常なら5歳位で自然に消えるものらしいのだが時々残る人がいるらしい。

佐久間君は私と似た所がある気がした。

 

ウチの子たちは、佐久間君が大好きだった。

彼には、上から目線だったり、子供だからと馬鹿にする所が全然なかった。

人の良い所を見つけるのが上手で、話が面白い、面白くしようとするあまりちょっと

話が大きくなることはあったが、それがちょっと軌道を外すこともあったが、それは誰も

傷つけない優しいものだった。

 誰に対しても、それは自分を悪く言う者や被害を与える者にまで優しかった。

人に利用されても人を利用したり食い物にすることがなく、約束を守る人だった。

 

 私が死に掛かって誰とも会いたくなくなった時、佐久間君にだけは会いたかった。

30キロ代にゲキ痩せして顔色もなくなりやっと佐久間君の店に行った時、佐久間君と

話すと何だか気持ちが暖かくなって、元気が出たことを思い出す。

 佐久間君の店に行く時は、サングラスに白いシャツに革パン、ちょっと気張って行った。

「麻子さん、これからデートですか?」

「んなわけあるか!」死にそうにヨレヨレだった私が笑いながら答える。

「いやー、僕思うんですけど、麻子さんって年齢なんか関係ない面白さがありますよね。

子供って視点や発想が自由でどういう風に見ているのか、何を感じているのか分から

ない魅力があるじゃないですか、麻子さんって子供以上に子供の自由さを持ってるって

気がするんですよ」

「そうかぁ」

「麻子さんって誰とでも寝られて、誰とも寝ないって感じがしますね」などと言われると

ニヤニヤしたが、佐久間君こそゲイみたいな雰囲気を持つ自由な人だった。

 話してもいいこととダメなことの区別がつかないところもあったが、それは、聞く側に

良識さえあれば何ら問題のないことだった。

 私の子供たちが反抗期で私や大人を拒否していた時、彼にだけは心を開いていた。

 

私は2001年に死ぬ目にあって、2002年の暮れに山小屋を作った。

そこに「遊びにおいでよ」と佐久間君を何度も誘っていたが、彼の仕事が忙しく来られ

ないでいるうちに2003年に骨髄性白血病を発病した。

その後、彼が何度かの入退院を繰り返していると聞いて気に掛けていたが、

2005年の秋、突然、彼が山小屋に現れた。

「春に退院してたんですけど、来週また入院するんですよ。

ホントはもうとっくにない命なんですって、奇跡だって先生は言うんですけど、

僕、死ぬ気がしないんですよね」

「うん、私も佐久間くんは死なない気がするし、若し死んでも、死なない気がする」

 山小屋の上で青空を見上げながら話した。

「絶対また来ますから」と彼は言い、

「何だか最近、心が穏やかで幸せなんですよ」と言って帰っていった。

 

 2006年5月4日(木)

 その日、夫は翌日から恒例の台湾に行くということで、山小屋で蕎麦を打っていた。

ちょっと手伝おうかと周りをウロウロしていたが、ヒーヒーと寒くて悲しくなってきた。

「何だか寒い」と言うと、

「先に風呂に入って温まってな」と夫は言った。

 電話で佐久間君が亡くなったと聞いたから、悲しくて寒いのか?と自分に聞く。

死ぬことは良くないことなんだろうか?

 それは時と場合によるんだろうな。と考える。

死が背負いきれないほどの悲しみと無念であることもあれば、救いであることもある。

 佐久間くんはどうだったのだろう?

1998年に友人が自ら命を絶った。彼女はどうだったのだろう?

 彼女がこの世を去って3年後の2001年の3月に、風呂の前に彼女の気配、

いや彼女だったかどうか分からない。

兎に角何かの気配を感じて本当にそこに居るなら風呂の戸を開けてみろ。と念じた。

風呂の戸は押されたみたいにパーンと開いた。

それでも信じられない私は、戸をきつく閉めたりゆるく閉めたり色々試したが、

毎日戸は開いた。開く時、そうなるような気配があった。

 その日も、そうなるような気配があった。

風呂の中から閉まっている戸を見た。

下水道工事で歪んだ戸のワクは、完全に閉まらないようになっている。

だから、何かの弾みで開くことがあっても不思議でない。

 不思議はないが、開いたのは2001年の3月の、あの時だけだった。

戸をじっと見た。

 戸はあの時と同じ、グーっと押され、パーンと開いた。

「そうかぁ、会いにきてくれたのかぁ」と私は声に出して言った。

 風呂で温まった私は、和室のテーブルに座った。

和室の横はフローリングの部屋になっていて、愛犬マイロのトイレが置いてある。

そこは、以前に泊めてはならない人を泊めた時に、上から何かが降りてきた場所だ。

テレビを見ていると、その場所に気配を感じた。

 気配を感じたが、私は全く動かなかった。そちらを見るようなこともしなかった。

しかし、マイロがササーっとそこに行き「ワン!ワン!」と異常な啼き方を始めた。

 何かは、風呂場のある北の方に行ったり階段の方に行った。

それを追いかけるかのようにマイロが吠えながら歩く。

 テレビから目を離さずに私は

「マイロー、その人はお母さんのお友達なんだから、吠えないでー」と言った。

 マイロは吠えるのは止めたが、唸りながら私の座っているテーブルの方を見て傍に

来ない。

テーブルに来たんだな、と思う。

そこへ、

「どーしたんだ、マイロうるさいな、山小屋まで聞こえるぞ」と夫が出来立ての蕎麦を

持って階段を上がって来た。

「佐久間君がお別れに来たんだよ」

「そーかぁ」と夫は蕎麦をテーブルに置きながら、コップと小皿を持ってきた。

「じゃ、今日はお別れパーティだな」と小皿に蕎麦を取り分け、1つ増えたコップに

ビールを注いだ。

「乾杯じゃなくて献杯か?」と夫が言う。

「いや、この世の修行が終わって楽になったんだから、乾杯でいいんじゃねえの?」

「そうだよなぁ、オレ、一度オレの打った蕎麦、佐久間君に食わせたいと思ってたん

だけど今日食わせられるな」

「良かったね、オトウも佐久間君も」

その日は、佐久間君の話で盛り上がった。

 翌日、寝ている私に声を掛け、夫は台湾へと出掛けて行った。

 

 その晩、風呂に入るとまた気配があった。そして、戸が開いた。

その晩は冷酒を呑んだが、小さなコップで佐久間君にも献上した。

 翌日、店の仲間にその話をすると「今晩も来るかな?」という。

 

 で、その晩どうしたかっていうと、風呂のドアを開けて入った。

そして、言った。

「まさか、今日もそこに居るなんてことはないよね。

人間、思い切るってことが大事なんだ。私は尻尾の長いトコがある。

嬉しいことがあるとそれにしがみつきたくなる。

でも、どんなにいい事でもしがみついた途端、ベツモノになってしまう。

自分の引導は自分で渡す。私はそうしたいと思っている。

昨日と今日は違うんだ。

自分が次の場所に行くのは、自分が決めて自分の覚悟で往きたいと思っている。

応援してね」

 

 私も夫も佐久間君が大好きだった。嫌なとこのない子供みたいな人だった。

っていうか、今も大好きだ、よ〜ん。