お別れ

 

 先日、伯父(父母の兄)の葬式があった。

葬式に行ったことを“言いたい放題”で書いた。

 それについて、

<お疲れ様でした>

 その場に相応しくないこと、仕出かしませんでしたか?

それが心配、なんちゃって(笑

    と、入った。

<何で知ってるの>

って言いたいとこなんだけど、何と!私、ちょっと変わったんですよ。

と入れたが、

冠婚葬祭というちょっと非日常の状態に人が集うと、そこに集まった人たちの、

日常の生活では隠していたっていうか隠れていた失礼な言動が出るような気がする。

 私自身も自分を誇示したいような、変にハシャイデしまうような状態になることが

多かった。

久し振りに会う身内にお互いの状態の探り合いがある。

疑問に思っていたことを聞く人から始まって、誰かが大きくなっただの、

美人になっただのと誉めてるつもりの評価。

誰それは結婚したのか、子供は出来たか、家は何処に住んでいる。

そこには、聞かれたくなくている人も居る。失礼なことを言われて、落ち込んでる人も

居る。

 そういう人を見ると、今までの私は気付かれないようにしてきた“つもり”だが、

さり気なく話の矛先を変えたり、ふざけた真似をしてその場の雰囲気を変えるなどして

きた。

 でも、それってどうなんだろう?と急に疑問が生じた。

大きなお世話、余計なお節介をしてきたんじゃないだろうか?

 まあ、今までのことはそれで良い。

それが良いことだと思って精一杯やってきたんだから。

 でも、嫌なことを言われてそれが嫌だったら自分が変えていくか、自分で乗り越えて

いかなければ意味がない。と突然思った。

 それは自分で乗り越えるために起きていることなのに、私が横取りしてきたんじゃな

いだろうか?

一時的に付け焼刃で私が助け舟を出したとしても、根本的な解決にはならない。

 

以前、ある人に困ったことが起きて助けを求められたことがあった。

私は、心から謝って償うしかないだろうと答えた。

 その人はどう謝ったらいいか分からないと言った。

その人の気持ちを代弁したつもりで私が言った言葉を、その人が手紙に書いて相手に

渡した。

 しかし、その人はそれに対しての償いはせず態度も改めず、あの手紙は本当にあなた

が書いたのかと言われ絶交されたという。

 どんな拙(つたな)い言葉でも行いでも、その人自身が考えて決めて行動しなければ

意味がないんだと気が付いた。それを思い出した。

 人が集まっている所に行くと私は気が散れる。

アッチにもコッチにもアンテナを張り、気を使い地に足がつかなくなる。

「へー、大変ね、あたしはそういうことはないわ」と言った人が、浮かれて落ち着きの

ないことに、そしてその人が自分に気が付かないでいることが嫌になる。

 そして、誰かを嫌いだという思いは自分の首を絞める。

 

 今回は先ず自然体で居ることにした。

周りに余計な気を使わず、気を散らさず、ただ叔父とのお別れをしよう。

 待合室に家族と共に過ごした若い頃の写真が何枚も飾ってあった。

腹違いの兄弟なのに父にそっくりな姿と顔だった。

読経が始まったが、後ろでヒソヒソと話す声が止まない。

以前の私だったら振り向くことで諌(いさ)めようとしただろう。

そして、それから自己を嫌悪することになった。何を偉そうにと。

 

 幼くして実母を亡くした叔父、ヤンチャで大らかだった彼は大きくなるまで2度目の

母を疑ったことがなかったという。

 酒が好きでユーモアがあって仕事が好きで、事業に成功し順風満帆の62歳バス停で

倒れ何年も持たないと言われたのが、21年の闘病生活。

 世話をしてきた家族も大変だっただろうが、身体の自由の利かない21年はどれ程

長かったか、どれ程の辛さだったか。わが身として考えようにも想像を絶する。

 でも、あの写真のように家族と共に彼の人生はあったんだよな。

今、楽になったんだよな。

読経の声に身を任せていると身体も心も解けていくみたいだった。

暖かいモノに包まれ眠っているみたいになった。

 いいお別れが出来た気がする。