パンク

 長かった猛暑の夏が、やっと終わりを告げた。

 

お盆の墓参りの時に、私は「車の空気圧が弱い」と言ったらしいが覚えがない。

私は、自分で覚えがないことを言うことがある。

 その1週間後にタイヤがパンクしていることが判明した。

タイヤの横の部分にアイスピックのような物で突かれたような痕があったそうだ。

その車は、今年の春に買ったものだ。

10年以上乗ってきたバンが、そろそろ変え時期だと思い立ち、奮発して買ったワゴン車

だった。

バンの方は、すぐに処分しようと思ったが、来年の4月まで車検があるので、それまで

は乗ろうということになり、駐車場には子供たちの車も置かれている。

 車の増えた駐車場は一見、景気が良いように見える。

人の車のタイヤをパンクさせても、何もいいことはない。恨みだろうか、それとも嫉妬。

 そういう時に私は、自分の生き方を振り返り、人に恨みを買うようなことはないか、

失礼な真似をしてはないかと考える。

 そして、思い当たることがなかった場合、厄を祓(はら)ったと思うことにしている。

 

 一昨日、伯父が亡くなったという知らせが入った。

両親が70歳を越えて、夫が車を出そうかという話になった。

ところが、もう1本のタイヤにも刺し傷があったことが分かった。

 最近のパンクは一気に空気が漏れず、少しずつ漏れるので危険が少ない分だけ分かり

にくいようだ。

 きっと1本目のタイヤ交換の時には、もう1本のタイヤもやられていたのだろう。

空気をイッパイに入れたので少しは乗っていられるが、高速道路を走るのは不安だ。

 結局、ウチの車は出さないことにした。

 

 そこで思い出した話があった。

昔、読んだ本の話だ。

 

 ある山の奥に山姥(やまんば)が棲んでいた。

その山姥には、キレイな優しい娘が居た。

山姥は、その娘を自分の命より大事に可愛がったが、娘は病弱だった。

娘の命を永らえさせる為には、人の生き胆を食べさせるのは一番だと知った山姥は、

山道を歩く人を殺しては生き胆を盗って娘に食べさせるようになった。

 勿論、娘には動物のモノだとウソをついて。

優しい娘は、動物のモノだと言われても嫌だったのだが、母親の気持ちを考えて食べた。

 ところが、ある時、ホントウのことを知ってしまう。

その日、その晩、山姥は、山道に出かけて行った。

人を殺して生き胆を抜き取るために。

 そして、暗い山道を歩く人見つけ、殺して生き胆を抜き取り、まだ暖かい生き胆を手に

娘の居る家へと走って帰った。

 家に入ると、娘の姿がない。

何処を探しても娘の姿はない。

「エッ!?」と、山道へと戻る。

自分が殺し、倒れている旅人。

それを返して見ると、変装をした我が愛する娘だった。

 

 何があったか知らないが、他人のタイヤに針を刺す人の心には鬼が棲んでいる。

その鬼を野放しにしているのは、その人自身だ。

 その罪が、自分に返るからではない、誰の心にも鬼が棲んでいる。

その鬼を御(ぎょ)することが、人として生きることだ。

 

 その人が刺したのは、他人のタイヤだろうか?

自分意外のことは考えられない者の愚かさと悲しさ。

 

 山姥が、娘を思う気持ちを万人に向けられたら、想像だけでも思うことが出来たら

一番大事な大切な娘に、地獄の悲しみを味あわせないですんだだろうに…。