レオナルド・ダ・ビンチ

 

 以前に“トリックスター”でレオナルドについて書いた。

“ルネサンス”でも、気持ちはレオナルドに向いていた。

 2、3日前「BS、Iチャンネルでレオナルドをやってるよ」と娘から電話が入った。

慌ててテレビを回した。

 面白い!知っていることだが、切り口と解説の違いで一つの事が色んな方向から見えて

感心して感激する。

テレビは映像がある。こーれは、素晴らしい。

まとめかたが上手い!

笑っちゃったのが、養老猛のレオナルドに対する敬愛と、子供みたいな

「この人は僕のもんだもんねぇー」という独り占め感覚。

養老が、「今この世にレオナルドが現れたら、彼と一番話が合うのは、この僕だ」

と言うのを聞いて、この人はどんだけレオナルドを愛してるんだろうと思って、

彼が出て話す度にニヤニヤしてしまった。

 まあ、人のこと言ってる場合じゃないんだけどね。

 

で、その翌日、家族とスタッフが朝のミーティングをする時間にレオナルドについて

語り出した。

 その反応。

「話は分からないけど麻子さんが、嬉しそうで機嫌が良いから、いくら話してもいいです」

「あー、養老猛と同じだ」と娘。

「ウルサイから裏の田んぼにでも行って、一人で喋ってろ」と夫。

で、ここで語ることにした。

 あー、良かった。ここで語るのは、読みたくない人は閉じればいいだけだもんねぇー。

へっへーだ。ドンドコ喋っちゃうもんねー。だ。

 

 さあてっと、何から行くかな。

<レスター手稿>

1994年“レスター手稿”がオークションに出たー!

ビル・ゲイツが33億で落札する。

レオナルドが52歳の時に、そういった手稿が48冊あったらしい。68歳で没した訳

だから、その後何冊まで増えたんだろう?

それは8000ページを超えるらしい。

レオナルドの手稿の一つ、“パリ手稿”はレオナルドの死後200年、ナポレオンの手

にあった。

 

左手で書かれた、イカ墨、鏡面文字のそれを、裾分一弘名誉教授は、その殆ど(写し)

を持っているらしい。

裾分はそれらを幾度となく見直し見続けているという。幸せな人だ。

 

 ヴェロッキオが描いた“キリストの洗礼”の左側の天使をレオナルドが描き、師匠で

あったヴェロッキオがレオナルドの絵を見て二度と絵筆を握らなかった。

レオナルドの才能が彼の絵筆を折らせたという話は有名だ。

中世、大金持ちのメディチ家が芸術家のパトロンになり支援し、レオ10世がローマ

法王になったことがルネサンスの始まりになる。

面白いことが大好きのレオ10世は就任の時「さあ、楽しもう!」と言ったらしい。

それが、ルネサンスの始まり始まりー。

ボッテチェルリ、ミケランジェロ、ラファエロ、ヴェロキオ、ジョット、レンブラント、

ランボー、コロンブス、トスカネリ、マキャベリ、チェーザレ、メディチなど、友人から

同士、パトロン等が、彼を取り巻く。

13世紀の十字軍の失敗から16世紀の免罪符の発行、神中心から人間中心への動き

この辺は先日書いた“ルネサンス”を読んでちょ。

 

<ノアの箱舟>

レオナルドは、イタリアの山で貝の化石を発見する。

画家でありながら建築学者、解剖学者、科学者であったレオナルドは、そこで、

ノアの箱舟の洪水ではなく、科学的見地から地盤の隆起や地動説に行き着く。

ガリレオが現れる100年前だった。

そして、地球と月、太陽の大きさと距離を最初に発見したのは私だと言った。

そのレオナルドに、解剖学が追いつくのは19世紀。

 レオナルドは、迷信や作り事の世界でなく真実を求める人だった。

神中心の世界から人間中心の世界へ移って行ったルネサンス(再生、再構築)は、

古代にあった科学と観察、自由な自然を再構築する時代だった。

 

<ミケランジェロの最後の審判>

 レオナルドは、その作品は寡作(少ない)が、手稿は多い。

それは日記であり、その日に出合った人や印象。物事の観察、それに対しての考え

研究実験、と、その結果。と、彼の思考と行動がそこに存在する。

 面白いのは、小悪魔という意味を持つサライ(頭の中の散歩道の“トリックスター”

を読んでみてちょ)とミラノで10歳の彼と出合う。

そこで結構金銭的にシビアであったらしいレオナルドが、財布から小銭をくすねられ

ても見逃がし、サライの言動を楽しむかのように毎日のように出てくる。そして生涯の

友となるのだが、ミケランジェロのことは全く出てこない。

どうも、ミケランジェロはレオナルドに抹殺されたみたいだ。

 

 レオナルドは、自分よりずっと若いミケランジェロと出合った頃、ミケランジェロに

「絵画は神の身内だ」と言っている。

 私は、それは、彫刻が芸術でないと言っているのではなくミケランジェロが、彼の認

める芸術家ではなかったのではないかと思う。

 最後の審判を、レオナルドも手稿の中で完成させている。

さーて、それはどういうモノだったか。

 

その前に、天井画の“創世記”を描いたミケランジェロが、バチカン、システィーナ

礼拝堂に“最後の審判”を、どのように描いたか。

ミケランジェロは60歳でそれを描き始め66歳で完成させる。

その時、レオナルドはすでにこの世に居なかった。

ミケランジェロは、それを聖書の通りに、神が人々を天国と地獄に振り分けている

様子を忠実に描いた。

確か、その頃フンドシ描きという仕事があって股間の一物は葉っぱや霧、雲などで隠

されている。

 

 さてさて、手稿の中でレオナルドは、最後の審判をどう描いているか。

その前に、レオナルドが幼い頃から水に異常なまでの興味と関心を持っていたとことを

言わなければならない。

 彼が描いた絵に水が多い。

<水辺の観察者>

1452年4月15日に生まれた私生児の左利きの少年は、水が好きで小川や水車を

飽かず眺め観察する子供だった。

手稿、第3、水源は山にある。

第15、水流と障害物。

第21、水の性質と動き。地球の水の流れと、人体の血液の流れ。など水に関するもの

が多いと裾分名誉教授は言う。

 レオナルドは、水辺の観察者と呼ばれ水を見つめ観察し、それを描き続けた。

彼にとって学問は観察でありサイエンスであり絵を描くためであった。

そして、同時に絵に描くことがサイエンスだった。

当時は見えようのない “水の飛沫”をレオナルドは描いた。

その謎が解けるのは、500年後だった。水を軸とした都市計画を考えた。

「水を制する者が都市を制する」と彼は言った。

あー、そういえばパリに行った時に地下水道が完備されていることに感激し、

“レ・ミゼラブル”でジャンバルジャンが地下下水を逃げる場面があったと思い出した

ことがあった。

 その地下下水道はナポレオンが作ったとその時聞いたが、

あー、ナポレオンはレオナルドの手稿を持っていたのか。

 

<レオナルドの最後の審判>

 レオナルドが描いた“最後の審判”そこに、神は描かれていない。

そこにあるのは、荒れ狂う水、波、渦巻き、風、その一分として小さな人間が見える。

 彼は、人間を自然の、宇宙の一部として描いた。

それは、地球最後の時のようだ。

 

 レオナルドは61歳で学者としてローマに行く。

64歳でフランスへ戻る。

 

1519年5月2日 68歳没

彼の手元には、3枚の絵が置かれてあった。

<3枚の絵>

一枚は、1503年、53歳の頃に描いた“モナ・リザ”髪のカールも水の流れを

表していると言われ、背景にも水が流れる。

そして、モナ・リザを連想させる“聖アンナと聖母子”

3枚目は、レオナルドの最後の作品だといわれている“洗礼者聖ヨハネ(バッカス)”

男とも女ともつかないバッカスはユニセックスな身体表現で、デカダン(退廃主義)に

大きな影響を与えたというが、これだけはバックが真っ暗な闇になっている。

 

遺言者は最後まで寄り添ったメルツェ(最後の弟子)達によって看取られる。

最後の審判に形としての神を描かなかったレオナルド。

 

「自分の芸術を真に理解できるのは、数学者だけである」と言ったレオナルドは、

本当の神を知り、本当に神を愛していた。と私は思う。

 

(蛇足)

何故、私はレオナルド・ダ・ビンチや、南方熊楠、岡本太郎、山下清が好きなのか。

 

逆に嫌いなモノを考えてみると、ウソ、誤魔化し、秘密主義、出し惜しみ、勿体つけ、

威張り、偶像崇拝、弱い者イジメ、相手状況によって態度や答えが変わること。

 

 私が好きな人は、真実を追究し、自分に正直な人のような気がする。

そして、何より自分の価値観と夢中になるものを持っている。

 

ダビンチは、地動説を信じ、解剖を行い、神中心の絵画は描かず、男色だと噂された。

その当時、男色は重罪だった。1600年にブルーノは“宇宙の無限性”を唱えて

火あぶりの刑になっている。

 なのに何故、レオナルドは、罪に問われなかったのか。

レオナルドは年老いても次々と女に手を出す父親を嫌がり、

その手記に「肉欲を抑制しない者は、獣の仲間になれ」と書いている。

私は、レオナルドに男の友情はあっても男色はなかったと思っている。

 そして、レオナルドの天才の凄さを感じた者は、彼に手を出せなかったんじゃないか

と思う。

 

 私は孔子が好きでない。老荘の思想に敬服する。

儒教の教えが好きでない。墨家の教えに納得がいく。

親鸞が好きで、キリストが好きで、釈迦が好きだ。

そんなに知識もないクセに、全く生意気なヤツだ。自分。

 

 いい師匠を持つことが、自分が育つ秘訣だという。

好きだと思う人が居ることが幸せ。

好きでないと思うことも、自分を見直す鑑となる。という。

    あー、面白いなぁ。