理由

人間ってやつは、理由がないと不安になるらしい。

理由(わけ)が分からないということは、腑に落ちないことは許せないのだ。

例えば今回の母親毒殺未遂事件みたいに母親に毒を飲ませていたと聞けば、

母親との関係だとか生まれ育ちの問題、精神状態に異状がなかったかなどと調べ、そこに

何らかの原因を見つけだし安心する。

 しかし、宮崎勉の女児殺し、神戸少年殺人事件あたりから理由のない悪が現れ始めた

気がする。

それは、ある意味クリアーな行為なのかもしれない。

憎悪や怨恨、金欲しさといった理由のない悪。そこに良心の呵責はないのかもしれない。

 シンドラーが、ヒットラーの手から虐殺されそうなユダヤ人を次々に救っていった時、

損得抜きの行動を理解出来ない者が、売名行為だ。金儲けに繋げる気なんだ。

いや、自分が救われる為に人を救い出したんだ。

いや、きっとユダヤ人に思い入れがあるんだ。などとそれぞれの解釈でシンドラーの行い

に理由を見つけ出そうとした。

 そこに、何の見返りも計算もないとき、それが善行であっても人は不安を抱くものらし

い。

 

 昔、飴と鞭でなければ人間を御しきれない、正すことが出来ない世の中だった頃。

そこに十戒が出来た。選ばれた人間はノアの箱舟に乗ることが出来るといわれ、

人々は、神に好かれようと躍起になった。

地獄に行かないために悪いことをしてはならないと戒めた。

寺に極楽と地獄の絵図があった。

地獄では、ウソを吐いた者が舌を抜かれ、悪事を行った者が針の山に登らされ、

背中の皮を剥がれ、釜茹でになっていた。

そこに阿鼻叫喚する悪人が逃げ惑い、苦しみにのた打ち回っている姿が描かれていた。

極楽の絵図では、美しい山々の向こうに青空が広がり、あたり一面美しい花々が咲き乱

れている。

透き通った池の中には蓮の花が咲いている。

そこを、にんまりとした顔で散歩をしている人がいた。

 私は、それがどうにも理解出来なかった。

極楽に行くような人が、何故地獄に行って苦しんでいる人間が居ても平気なのか、

分からない。

 泥中にありて花咲く蓮の花、泥中にあれど花咲く蓮の花、泥中にあれば花咲く蓮の花

 

愛は美しく、憎しみは醜い、愛は必要で、憎しみは必要ないという人が居る。

そうだろうか?

バリの神様は、愛の神と憎しみの神が居る。

憎しみは愛に行く過程なのだと私は思う。

悪は善に向かい、やがて透明になる…。そんな気がする。

 

老子、タオの一節

プラスはマイナスを大きく含み、マイナスはプラスを孕みながら進む。

窪みには自然と水が溜まる。

人は背に陰を、胸に陽を持って和に向かい進む。

 

親鸞聖人は、親兄弟、自分の為に念仏を唱えたことがないという。

 

悪戯をしている子供に「ほら、怒られるから止めなさい」と言う。

「勉強をすると幸せになれるから頑張りなさい」と言う。

見返りがなければ頑張らないのか?罰がなければ止めないのか?

何時までそこに留まっている気なのか?

 

釈迦、ブッダ(悟れる者)は王子として生まれ何不自由ない生活を保障されていた。

しかし、釈迦が生まれて7日後にその母親を亡くす。

菩薩、菩提(真の幸福)、薩タ(求めし者)悟りを求めし者になる。

釈迦は天国に居ても地獄があれば喜べない人であると思う。

しかし、地獄にも極楽を見つける人であると私は思う。

 

現代の人間(特に日本人)は、自由を与えられた王子ではないだろうか。

自由を与えられたということは、もう自由には生きられないということでもある。

言い訳は許されない。

生きるための悪事は必要ないのだから…。

理由は必要としない行いが、始まる。始まっている。