ロボトミー

 1975年、「カッコーの巣の上」という映画が出た。

当時21歳だった私は、新聞にあった映画紹介でそれを知った。

ケン・キージーの小説を映画化しもので、映画にするまでに13年がかかったという。

カッコーという鳥は、自分で雛を育てない。他の鳥の巣に自分の卵を産み落としてくる。

カッコーの卵は、いち早く孵(かえ)りそこにあった他の卵、その巣の本当の子供である

卵を巣から落とし、そこの親鳥に餌を貰い、大きくなると巣を壊して立ち去る。という。

 

映画の内容は(これから観ようと思う人は読まないで下さい)

ジャック・ニコルソン演じる男マクマーフィーが、刑務所の更生農場で暴れたため

精神病院に入れられ、そこで生活して精神鑑定されるというところから始まる。

言われたままに並び、次々に薬を飲む精神病院の患者たち、

順番がきて薬を手渡されたマクマーフィーは「これは何の薬だ?」と聞く

すると「落ち着きなさい」と看護婦が声を荒げる。

「俺は落ち着いているよ。誰だってそれがどういう薬なのか分からないで飲むのは嫌だ

ろう?」

「じゃあ飲まなくてもいいわ、その代わり違う方法があるから。

ただし、そっちの方がきついけど、飲まなくて結構よ」

これは脅しである。そこの患者は、疑問を持つことを許されていない。

疑問を質問することは、それだけで反抗とみなされる。

そして、患者のためという大義名分をもって皆の前で秘密を暴き立てられ、

個人の自由もプライバシーの保護もないミーティングに、強制的に参加させられる。

ミーティングが悪いのではない。

そこにある強制と、個人の意思が尊重されていないこと、本音の言えない無言の脅しが

悪なのだ。

その婦長の支配欲を満足させるために病院の絶対権限によって運営されているそこには、

患者達の人間としての尊厳はおろか、希望も自由も取り上げられ、生きる気力も個人の

意思も抹殺されていた。

 野蛮な危険人物の雰囲気を漂わせるマクマーフィーが皆に教えた賭けトランプで、

患者たちが本気で興じ出しす。そして、喧嘩が始まる。

喧嘩が連鎖し騒ぎ手が付けられなくなった時、マクマーフィーは部屋の中央にある

大理石に取り付けられた水道で水をかける。

喧嘩は収まったが怒る患者たち。しかしみんなの顔が生き生きしている。

その患者たちにマクマーフィーは、「町に野球を見に行こうバーに行こう」と言い出す。

出来っこない、外には出られないんだ。と最初から諦める仲間に向かって

「この台を外してみせるが、幾ら賭ける?」と突然マクマーフィーが言い出す。

出来る筈がないと口々に言う仲間。出来る筈がないから止めろ。と…。

しかし、マクマーフィーは大理石の台に挑む。

顔を真っ赤にして頑張ったが台は動かなかった。

動かなかったことに不満の顔をする者がいた。そこでマクマーフィーが言う。

「俺は、努力はした。チャレンジした」と。

騒ぎが起き、諍いが起き、そこで自分の意志を示したとき、患者達の表情が変わった。

 

ミーティングでマクマーフィーの呼びかけにこたえた仲間が、テレビで野球を見る権利

を勝ち取る。

それが例え精神病患者であっても、人間としての誇りを失っているわけではない。

 

柵を張り巡らされたバスケットコートのある広場で患者と看守がバスケットをしている。

聾唖(ろうあ・耳が聞こえず話せない)のチーフという名のインディアン大男にバスケッ

トを教えだすマクマーフィー。

無駄だという声に耳を貸さず、根気よく教え、ただ立っているだけだったチーフが走り

出したとき、その顔に笑顔がこぼれる。

 

 マクマーフィーはチーフの手を借りて塀の外に飛び出し、仲間の乗る外出のワゴンを

乗っ取り海に行く。

女も乗せ舟に乗って海の上での釣りは狂喜乱舞である。

岸辺に戻ると捜索隊が待ち構えていた。

彼に危険を感じた病院側は電気ショック療法を行う。

電気ショックに恐怖し病室に引きずり込まれる仲間。

これは断じて療法ではない。仕置きだ。脅しだ。

電気の順番を待たされるマクマーフィーの隣に座るチーフにガムを渡すと

「ありがとう」とチーフは答えた。口がきけた。耳も聞こえていた。

マクマーフィーは、脱走を計画し始める。

チーフを誘うが、大男のチーフは言う。

「あんたは大きな男だ。おれは小さい。俺は逃げられない」

脱走の晩、病院の者が帰った後、女に準備をさせ別れのパーティが始まる。

女を求めながらコンプレックスを持つ若者ビリーがいた。

自分の意志を持つことも意見を言うことも総て逃げてきた。

彼はひどい吃音だった。

ミーティングで全員が聞く中での失恋と自殺未遂の話。嘲笑いに怒る気力もないビリー。

 

パーティが終わり今から出発という時、マクマーフィーはビリーを誘う。

ビリーは、そこにいる彼女も一緒かと聞く。

「彼女とデートがしたいのか?」

「うううん、ででも、むむ無理だよ」

「どうしてそう決め付ける、やってみなくちゃ分からないじゃないか。」

「だだだって、じじじゃあ、こ今度誘ってもいいいかな?」

「今度なんて駄目だ。今だ!」

一室に女とビリーを押し込みマクマーフィーと仲間が喜ぶ。

そして、寝過ごす。

明るい空。次々出勤してくる病院の人間。

婦長の白い帽子が、汚れた床に落ちている。

全員が揃っているか人数が数えられる。

ビリーの姿が見えない。

婦長が開けた部屋に女と眠るビリーの姿。か細い白いビリーの腿。

仲間の喝采に迎えられ婦長の前に立つビリー。

少し照れながら「説明させてください」と言うビリーに吃音はない。

しかし、「お母さんが知ったらどう思うかしら」

「お母さんとあたしは親友よ」婦長が言葉を発する度にビリーに吃音が戻る。

「おねおねお願いです。このこのこのことは母さんには…」

あなたの意志でこういうことをしたのかという婦長の問いかけに

自分からではないとビリーは逃げの返事をした。

「もう、行きなさい」

最後まで母親に告げられることを畏れるビリーが引き立てられていく。

むごいなあ。

人を生かす人と殺す人がいる。

命のことではない、心のことだ。

マクマーフィーが一度鍵を掛けられた窓を再び開け、逃げようとした瞬間悲鳴が聞こえる。

部屋に走るマクマーフィー

ビリーが、ガラスで命を絶っていた。

騒ぐ患者を部屋から押し出し「何時もの業務に戻りなさい!」と叫ぶ婦長

婦長にとびかかり首を絞めるマクマーフィー。

何日かして首にコルセットをして何事もなかったかのようにアナウンスする婦長。

マクマーフィーが、逃げたと噂する仲間。

しかし、チーフが、マクマーフィーがベッドに戻ったことを知る。

「今度こそ一緒に逃げよう、今の俺は大きい気分だ」と彼を抱き起こすと、

そこに居たのは、額の手術痕のある廃人になった彼の姿だった。

チーフはマクマーフィーの顔に枕を押し当てる。

マクマーフィーの手が動かなくなる。

チーフは、以前にマクマーフィーが動かしてみせると挑戦した水道の台を、床からネジ取

り窓に投げつけ、そこから出て行く。

30年前の映画だ。

その時の私は、人間の踏み入れてはならない領域というものを、

人の自由と尊厳を侵すことより、自分が侵される恐怖として感じていた。

その映画で、ロボトミー手術を知った。

 

2006年

そして、今回、知人が持ってきた ルポ・精神病棟(大熊一男著)朝日新聞社を読む

に至る。

1973年に発刊された本書は、朝日新聞記者の大熊氏がアル中を装って精神病棟に

潜入しルポしたものである。

そこには、力を持つ者が陥りやすい罠。

人の気持ちが分からない、考えようとしない、人がどれだけ傲慢になるかが書かれていた。

描かれていたのではない事実が書かれていたのだ。

精神的にも肉体的にも弱い、病人である患者がより大変な病院生活と労働を強制的にさせ

られ、言論の自由は奪われ、自分の意志を述べることはおろか家族にさえ助けを求められ

ないように薬と脅しによって病院という密室に幽閉されていた。

医者と患者という立場の違いがあっても同等に存在すべき人間の尊厳はそこにはない。

医者はまるで神でもあるかのように患者の自由を奪い、そして時に与える。

犬に褒美でも与えるように。

病院側は、患者を悪者で必要のない人間に仕立て上げることによって、患者を利用して

業務に使っていることや病院が行なえわなければならないことを行わずに私腹を肥やして

いることから目を逸らす。治外法権の世界がそこにはあった。

強い、力を持つ者が弱き者に更なる荷を課していく。

と、ここまで書いて、なんだ!これは今の日本の構造そのものではないかと思い当たった。

用事があって養護院に行った。そこに居る子は、以前は親のいない子が殆どであったが、

最近は親が居る子が殆どで、虐待によって家に戻せない子もいたりするという。

そこの小学校に上がったばかりの子二人と関わった。

オネショの臭いがキツク、髪もクシャクシャで話していても息苦しい位だった。

こういう状態で学校に行って苛められないだろうかと心配になる。

一人は痩せて頼りない目が合わない子だった。もう一人はガッチリとした体系の一昔前に

いた汚い子という感じだった。

彼女たちは、親に育てられないというハンデの上に、更にそれに付随する背負いきれない

荷を背負わされていくのだ。

子供達が部屋から出ると保育士がお茶を出してくれた。

忙しいから結構だと断ったのだが、彼女達自身が話したい様子で引き止められた。

そこに来た二人の保育士の話は、仕事の大変さと子供がどれだけ悪いかに終始した。

そして、彼女たちも弱き者の一人だった。

力を持つ者がその力を惜しみ、弱き者のところへ更なる荷が課せられていく。

 

我が家の裏の水路に工事が入った。田んぼに影響を与えないために稲の刈り取られた

秋口から年度の替わる3月末まで工事が続いた。

そこで働いていたのは、60歳を過ぎた老人ばかりだった。

寒さで身を縮める年寄りたちは、ブルドーザーに乗った40歳位の男にマイクで怒鳴り

つけられながら働いていた。

工事現場に日本の若者を見かけない。

そこで働くのは殆どが中年以上の者か海外から働きに来た者の姿である。

病院では、健康でない患者が医者の都合に合わせて待っている。

そして、その医者も自分の時間を持てず、精神を病んでいる。

 

ロボトミーとは、ロボ(ロブス前頭葉)を、トミー(切断)すること。

方法は、こめかみより少し上に直径1センチほどの穴をあけそこからヘラをさしこみ、

前頭葉の神経線維の部分を切る。

前頭葉は想像力や計画性など高等な精神の宿っているところといわれる。

そして、どうなるかというと、人をボケさせオトナシクする。

危険な手術で廃人になったり命を落とした者も少なくないという。

1951年に広瀬貞雄教授がまとめた「ロボトミー」によると

将来に対する顧慮が少なく、その日その日与えられた仕事を忠実にするが、自分から

進んで先々の計画を綿密に立てたりすることが少なく、行き当たりばったりである。

自己自身を反省することが少なく、困った事態に直面しても、心底から深刻に考えたり

悩んだりしない。

1つのことに感情的に執着することがなく、たとえ口汚く他を罵るようなことがあっても

その場限りで忘れてしまう。すべてに長続きしない。

患者はしばしば雑念が湧いてこない、よく眠り、夢を見ない、取り越し苦労をしなく

なったといい、他愛なくよく笑うが、当人は以前のように喜怒哀楽の情が湧いてこないと

しばしば訴える。

一般には外からの刺激を素直に許容し、周囲の環境から孤立するようなことがない。

平凡すぎる日常生活。他人と受動的に円滑に接触する。

しかし、何となく深みがなく情熱に欠けている。

 

ロボトミーは、その人の心を殺す行為であると私は思う。

それを、一部の精神科医が告発しているが、ロボトミーをされた人で告発した者は

一人もいないという。

その心が殺されているから…。死刑囚に口はないのだ。

恐ろしい話だ。

もっと恐ろしいのは、脳に穴を開けずともロボトミー人間が出てきているのではないかと

感じることだ。

1970年代にソ連でテトリスが作られた。

その本当の目的はアメリカの兵士がそのゲームに夢中になって戦意を喪失することにあっ

たと聞いたことがある。

それが事実かどうかは分からない。分からないが、コンピューターゲームをしているとき

脳が動いていないフリーズしているということは事実である。

そして、喜怒哀楽をなくし、悩んだり後悔する世界にいないことも事実である。

感情と思考の面倒さから逃れることの代償として人間の心を失っていく。

 人はいつか死ぬが、心だけは殺してはならない。

 

 あーあ、また、こんなの書いちゃったよ。

困ったもんだよねえ。でも書きたかったんだよねえ。

実は、脳内革命2の中に「命に関わるほど癲癇(てんかん)の発作がひどい場合に良い

薬がなかった2・30年前までは脳梁を切断する手術が行われていた。」というのを

1996年に読んで、それがロボトミーだとばっかり思っていたんすよ。

 だからそれがどうしたって言われたら、困るんすけど、ここでまた得意の反省で

分かったつもりで書いているけれども、思い込みで間違ったことを書いているんじゃない

だろうかって心配なんですよ。

 でも書きたいんだから仕方ないよねえ。    チャンチャン