鯖(さば)

 魚屋に行ったら、その日にあがったという鯖を勧められた。

白い発泡スチロールの箱には、光る鯖が氷水に浸かっていた。

 小料理屋の大将に煮魚の作り方を教わったことを思い出し、それを買うことにした。

私は、煮魚を作る際、先ず煮汁を作りそれが煮立っところで魚を投入していたが、大将が

言うには、水から煮るのだという。

 そこの店の煮魚は薄味でいながら臭みがなく、魚の香り高く身も程よく柔らかい。

付け合せの牛蒡や葱、炊き合わせの大根なども美味いのだ。

野菜をどう扱うのかは、聞くのを忘れたが、魚を水から煮るというのは私としては新鮮

だった。

煮るというのは水からで、茹でるのはお湯からなんだそうな。

この辺で私の料理の腕が大したことがないことが、バレる。

3,40センチの鯖を3匹買い、下拵えしてくれるというのを断り丸ごと持ち帰った。

大きな方の銀杏(いちょう)のまな板を出し、その上に鯖を乗せる。

まな板の上に光る鯖。

鯖の背の模様はまるで海が光に揺れているようだ。腹は白く艶やかで色っぽい。

魚の背が青いのは、海の上から見た時に海の色と同じで、鳥などの天敵からその身を

隠すためだと聞いたことがある。

腹が白いのは、空の色や海の表面と同じ色でその下を泳ぐ餌や天敵に見つからないよう

にするためだという。

 ナルホド、空を飛ぶ鳥の背は地面の色で、腹は白いものが多いのも同じ理由か。

 

頭を落とし、腹を割く。縁起が悪いからと魚の頭を残し、背から切る所もあるらしい。

包丁の切れ味を楽しんで、ぶつ切りにしていく。

鍋に水を入れコンブを敷いて、鯖、投入。着火。

今回は鯖が新鮮なので生姜(しょうが)は入れなかった。

火が通ったところでミリン、酒、砂糖、味噌、醤油で味付けした。

生で食べても美味しそうな新鮮な鯖は、品があって香り高く、どんな味つけでも美味くな

りそうだった。

 鯖の味噌煮は家族に誉められたが、今回の手柄は私の腕でなく完全に鯖にあった。

 

 鯖を捌(さば)きながら、(あのー、洒落じゃありませんから)思い出していたことが

あった。

それは、25年程前のことになる。

当時勤めていた職場に臨時で採用された職員が入ってきた。

目のパッチリしたキレイな顔立ちの人だった。

私が20代後半で、彼女は年下だったから20代半ばだったのだろうか?

 彼女は最初の挨拶から緊張している様子で、焦ってしどろもどろだった。

女ばかりの職場というのは、何かと人の揚げ足を取る。

冷静に他人を観察し、冷酷なところがある。

 その彼女は、女性が怖いのではないかと私は思った。

何人かが集まって話をしていると、必ずそこに顔を出す。

何にでも首を突っ込むといったら、失礼だろうか。

「何ですか?」「何、話してるんですか?」

「あー、それは私もー」と必ず、自分もその中に入ろうとするのだ。

彼女は間もなく皆に嫌がられるようになった。いわゆる“ウザッタイ”というやつだ。

 それに加えて、彼女は誰彼構わず矢鱈と誉めた。

女というのは、いや女に限らないのだろうが下手に出ると甘く見られる。

お高くとまっていてもやっつけられるが、ヘコヘコしていると軽く見られてイジメられる

ことになる。

 彼女は自分の恥をさらけ出しても、皆に好かれようとしているようだった。

悩みを相談して友達になってもらおうともしたようだったが、自分にだけ打ち明けていた

と思っていたことが、誰彼構わず打ち明けていたということが皆に分り、

「えー、信じられない!何よあの人、あたし達を馬鹿にしてたの?」ということになった。

彼女は場の空気を読むのが下手だった。

何処か行動や言動がチグハグで、気を回すが気が利かない。

非常識な私でも「それはダメでしょ!」と思うことを言ったり、やったりした。

 非常事態が起きて皆が右往左往している時、一番邪魔になるところで呆然としていたり

必要以上に気を遣っているようでいながら、失礼なことをポロッと言ったりした。

いや、目の前の人に気を遣うあまり周りが見えなくなって顰蹙(ひんしゅく)を買う

ようなことになっていた。つまり、気遣いは仇になっていた。

 私も以前飲み会や食事に誘われないということがあったが、私の場合は皆と行動を共に

するのが面倒臭いので誘われなくて幸いだった。

また、皆が何を話していようが興味がないのでいちいち話に加わろうとすることもなか

った。

 思ってもいないのに誉めることは出来ない、というよりしたくない。

誉められると、どうリアクションしていいか分からず面倒で好きでない。

 きっと他の人から見たら彼女のウザッタサとは違うウザッタサが、私にはある。

 

 その頃、職場の噂話は彼女のあら捜しに終始した。

彼女だけを仲間はずれにして省(はぶ)こうとしている皆の様子が気持ち悪く、私は仲間

に入らなかった。

 その噂話や省きに関知しない人が、私以外にもう一人居た。

ある朝、問題の彼女が私の傍へ寄ってきて言った。

「あのー、何時もお世話になって、ちょっとしたもんなんですけど、ロッカーに入れて

おいたので帰りに持っていってください」

「何もいいよ、気なんか遣わないでよ」と言うと

「あのー、〜さんと〜さんだけに持ってきたので他の人には、言わないでくださいね」と

彼女は、私の名と彼女の噂話に関知しないもう一人の名前を言った。

 

夕方、仕事が終わって帰り支度をするためロッカーを開けた。

そこには、ビニール袋があり中には生鯖が入っていた。

 あれは、夏ではなかったが、冬でもなかった。

ロッカーの中は魚の生臭さで充満していた。

私は、誰にも見つからないようにビニール袋を持って駐車場に向った。

 帰宅してからそれをゴミ袋に移した。

彼女の気持ちを思うと悲しかった。

気を遣いながら気がまわらず、迷惑を掛けてしまうことになる。

人を求めながら求め過ぎて、人に疎(うと)まれ、逆に人が離れていく結果になる。

 私の中にもその要素がある。

あるからこそ、そうなるまいと孤軍奮闘している気がする。

 

 翌日、出社すると私ともう一人の鯖を貰った彼女と会った。

「あれ、どうした?」

「うーん、悪いけど、捨てた」

「そーか、仕方ないね」

「うん、鯖は中毒(あたる)と怖いし」

「そーだね」

彼女には、どう言おうかと考えたが、「アリガトウ」とだけ私は言った。

「あれ、朝一番に浜にあがったものなんですよ」と嬉しそうに彼女は言った。

 

あの時、私は、魚はロッカーに入れておいてはダメだと教えるべきだったんだろうか?