サンカ、少年院

 

 1974年、昭和49年、昔は少年感化院といった施設の実習に行った。

今は、教護院というのだろうか。

 そこは、養護院も兼ねていて、養護する親や親戚の居ない身寄りのない子供も何人か

入院していた。

 

 実習が始まる何日か前、学校から言われての友人達と共に、院に挨拶に行った。

戦争前は病院だったらしい古い建物は、土ぼこりの畑に囲まれた林の中にあった。

そこは隔離病棟だったという噂で、公道から入った細い道路を、また横に入って行った

所にある。

寒々しい木々に囲まれた塀の中は、車の音も聞こえず違う世界のようだった。

 

 私の出た学校は、保母、幼稚園教諭、養護教諭などの資格がとれる短大だった。

資格単位の中に水泳で25メートル以上泳げることがあったが、学校にはプールが

なかった。

そこで泳ぎの実習は、そこの少年院のプールを借りて行なわれた。

夏の水泳の授業が始まると、プールのすぐ横に建つ学校の窓からは、少年少女の好奇に

満ちた顔が覗いた。

 

その年明けの2月、寒い日だった。

職員室の横にある応接室に通された私たち実習生は、そこの教頭先生からの話があった。

 甘い考えや行動は慎むように、しっかり実習するようにという話の後、

「あんた達は、ちゃんとした家庭に育ち、こうやって教育も受けてるわけだ。

でも、ここに居る子供らは、あんたらの想像出来ない世界で生きてきた子供たちだと

思わねえと駄目な、危険な子供らなんだ。

 話していると一見何の異常もない普通に見える子供が、放火をして入ってたり、

親を殺して入ってる子もいるんだ。盗み、窃盗は常連。

女の子で入院させられるので一番多いのは、不純異性交遊、売春。

男の子は、経験のない子も中には居っけど、女の子は、経験のない子はいないね」

それを聞いて、私はゾッとした。

そういった話が嫌いだったということもあるが、先生の目が面白がっているように見え

たからだ。

更に話は続き、今中一の女の子は小学校の低学年から上野のヤクザの女で親分の客の

相手もしてきたという、そのヤクザはそういう趣味なのだそうだ。

キレイな女の子は、母親も凄い美人なのだが、身体を売って生きてきて梅毒になり顔が

崩れてしまっていて見たらビックリするようなお化けになっているのだという。

 「男を知っている」と、彼は私たちに言った。

「男を知っている女は、尻を見たら一発で分かるんだ、立ち姿で分かる」と、言った。

「ここの女の子供らの身体見てみな、みんな中年のオバチャンみたいな尻してっから」

 それを聞いた途端、ここで実習をするのは、それも泊り込みで2週間もここに居るのは

無理だと思った。

 吐き気がして気持ちが落ち込んだ。

それは、そこに入院している子を嫌悪しての吐き気ではなく、その先生が耐えられない

程気持ち悪く感じての吐き気だった。

「あー、一人居たな。男を知らない子が。

サンカ族って知ってるか?」と、まるで飲み屋で姉ちゃんにでも話しかけるように彼は

言った。

「知りません」と誰かが答えた。

 私はその時、初めてサンカという言葉を聞いた。

そのサンカと呼ばれる一族は、戸籍を持たず家を持たず、山の中に住んでケモノのよう

に暮らしている人たちなのだと彼は言った。

 そのサンカはもう存在していないと思われていたが、同県北の奥深い山中に年老いた

祖父と孫である女の子が見つかったのだという。

 祖父は死に、身寄りの全くない女の子はそこの院に引き取られた。

女の子はフタナリであると彼は、言った。

フタナリとは、女の身体でありながら男のモノも持っているのだという。

だから身体に張り付く下穿きを穿くと興奮して、尿を漏らしてしまうのだと面白そうに

彼は話した。

 

 病院でも学校でも寺、教会、施設でも、人を愛し導き助ける筈の所に、自分の権力を

利用し人をいたぶる人間が必ず居る。

 そういう人に会うと絶望的な気持ちになるが、ところがどっこい、世の中から排除され

差別的に見られ扱われている所や人達の中に、ホントウに人道的で暖かい、

そして大きな包容力を持つ人が居たりする。

 人の生きる価値は、存在する場所や職業、知名度とは関係ないところにあるのだ。

そう私が言うと、ただ単に偉いといわれている人を否定し、世の中から認められていな

い人に味方しているように思う人が居るが、そうではない。

そういった肩書きや見た目で物事や大事なものの評価をしたくないということだ。

 

私が実習で入った寮は、男子13人がいるメデタイ縁起の良い名前の付いた寮だった。

そこは、畳30畳位の広い座敷の前には毎朝の雑巾掛けで磨きぬかれた1軒半の奥行き

の廊下があった。

その廊下というのか板の間は、毎晩勉強部屋になり、東端には、寮の先生と寮母さんと

呼ばれる夫婦の家庭があった。

そこには、3歳になる子供が一人居たが、夜になると先生家族は自分の家に引き上げ

閉じられたドアには鍵が掛けられた。

そのドアは、日中でも鍵が掛かっていた。

廊下を挟んだ反対側、西側の端に6畳の部屋があり、実習生はそこで寝起きをすること

になる。

実習中は仲間と話すことは厳禁で、殆ど一人で行動をすることになっていた。

与えられたその部屋の扉は引き戸で、鍵はなかった。

 廊下を挟んだ先生夫婦の住まいは毎晩時間になると鍵が掛けられるが、19歳の実習

生の部屋には、何の配慮もなかった。

家では、夜道は歩くな、繁華街には行くなと危険なことには近づかないようにと

口やかましく言われてウルサイと思っていたが、心配をされない世界があることを知った。

私は、押入れから見つけた丸い折りたたみのお膳を引き戸の敷居の上に立てかけて置き、

若し誰かが開けたとしても全開しないようにした。

 

実習生の便所は、寮生の便所を使用した。

コンクリートで出来た小便用の男子トイレが並ぶ一番奥に、大便用の便所があった。

朝は、みんなが便所に立つ。その中にある便所を使うのはきつかった。

みんなが起きる前、明け方に起きてトイレは済ませ、日中もトイレは使わないですむよ

うにと、飲み食いはなるべくしないようにした。

 

 2月の一番冷え込む時期だった。

子供たちは起床の合図で飛び起きて布団を畳むと、朝の掃除、食事があり、裸足で板の

廊下に立ち、先生からの話を聞く。

そこでは、毎日のように何か怒られる事件が起きた。

雑巾の絞り方が悪かった。便所が汚れていた。物の片付けができていなかった。

その日は、カーテンの金具が取れていたことだった。

誰かが乱暴に引っ張ったのではないかと先生が言い出した。

下を向く子供たち。

子供は小学生から高校生まで、先生の前に横一列に並び、全員が丸坊主頭の後頭部を見

せていた。

「誰がやったんだ!はっきり言え!お前か!お前か!」と一人ずつ聞いていったが、誰も

答えず、その男は目の前にある後頭部を次々と平手で叩いた。

 私は、その人が先生とは思えなかった。

ある時は、誰か一人がずるい事をしたことの連帯責任ということで、全員が廊下に座ら

せられ青竹で背中を叩かれた。

 きっとその時の私は、恐怖で目を剥いていたのだろう。

その後、先生は私の所に来て

「ここに居る子供らは、普通じゃないんだ。

みっちりやっつけてやんないと何をするか分からない子供らなんだ。

生まれながらに罪を犯すような人間で、生まれも育ちも普通の人とは違うんだ」

と言った。

 私はその人に愛を感じることが出来なかった。

 

夜中にサイレンが鳴り響いたことがあった。

逃亡した子がいたのだ。

 その子は間もなく捕まって青竹で滅多打ちにされたと誰かが言った。

「でも、ここはまだマシなんだ」という。

「もっと悪いことをした者が入る所は、爪の間に針を刺すのだ」という。

「その痛みは指を詰めるより酷くて、漏らして悶絶失神するのだ」という。

「そして、その痕は爪に縦線となって一生残るのだ」という。

「それをされた者は、どういうことでも絶対に言うことをきくようになるのだ」と

その子は言った。

子供たちはヘンに物知りで、私と話していると仲間と顔を見合わせる様子が、私の知

らない何かを知っていて共有しているように見えた。

 

 実習が始まって間もなく、私は下痢が止まらなくなっていた。

いつもの神経性の下痢だった。

 

 子供たちは、日中は敷地内にある学校に行き、帰ってくると草むしりをする。

その時、実習生も一緒に草むしりを行う。

建物を風除けにした陽だまりで一緒に草を引いていると、子供たちは色んなことを

話してきた。

「保母さんは、ステーキって食べたことあっけ?」

「うん、あるよ」

「美味しいげ?」

「ううーん、そうだなぁ。まあまあ、かな?」

ここに来て食べたい物が食べられないことを知った私は、言葉を濁した。

そんな話していると、先生の家から子供がお菓子を食べながら出てきた。

「ボクはここから出たら働いて、お金貰って、ステーキ食べんだ」と、子供のお菓子を

横目で見ながらその子は言った。

そこの子たちは、訛りはあったが、言葉遣いは厳しく教えられ、オレという子は居な

かった。

子供たちは先生の前では、砕けた言葉も一切使わなかったが、すぐに私の甘さを見抜

いたようで私だけになると、みんなが一斉に話しかけてきた。

 先生もそういう私の甘さを見抜いていたのだろう、絶対に住所や電話番号を教えない

ようにと何度も言った。

ここの子供たちは、高校が終わると社会に出る。

保護観察はつくが、身寄りがなく行き場がない孤独から、ちょっとした知り合いでも

訪ねて行くのだという。

 ここに居る子供たちは、社会に出ると偏見と差別の目に出会うことになる。

何かなくなったりすると真っ先に疑いを掛けられ、それでなくても我慢がきかない子供

だから事件を起こしてここに入ったのだ、すぐにヤケになり、悪い仲間と繋がり

(悪い友達には事欠かない)犯罪に手を染め、今度は刑務所に入ることになるんだと、

先生は言った。

 

忍耐と我慢の気持ちを育てるためだということで、毎朝のようにマラソンがあった。

私はマラソンが苦手で小学校では、殆どビリだったが、毎回苦しくて死にそうになった。

マラソンと拷問は、私にとっては同意語に思える。

 それが、ここでは毎朝のように行われ、小学一年生の子が倒れた時は、バケツで水が

掛けられた。

 その子は、学校に上がる前からウソツキで悪いことに手を染め、ここに入れられたの

だという彼は色白でキレイな顔をしていた。

 生まれつきのウソツキや犯罪者が世の中には居るんだと先生は言ったが、私はそこに

暖かさのかけらも感じず、凍えた心は、氷を厚くすることでしか生き延びられないんだ

と私は思った。

 

 私語は厳禁の実習で、風呂だけが実習生の情報交換の場になった。

20近くある寮に一人ずつ配置された仲間が、時間を決められて風呂に入る。

そこで小声で大急ぎで話し、お互いの情報を交換した。

 私は男子寮だったが、友人はサンカ族だったという中学生になる女の子が居る寮だった。

その少女は、テッシュというものを知らず、お尻を拭いたちり紙を自分のロッカーに溜め

込んでいたという。

それが、異常なニオイを発して発覚したり、砂糖を盗んで食べて騒ぎになったり、その

他の食べ物もいろんな所に隠すので大変なのだという。

 林に散歩に行くと木の芽を摘んで、丁度サルみたいに食べるんだよ。と友人は言った。

食べられる木の芽や実が分かるらしい。

食べ物を隠すというのは、それまでの保障のない暮らしからきた生きる為の知恵なん

じゃないだろうかと仲間で話した。

 

夜はラジオを聞きながら勉強をする。

堅い板の間に小さなストーブが焚かれて、そこでソロバンをはじく音や本のめくれる音が

聞こえる。

 先生が、自分の家に入ってしまうと、小声で話しが始まる。

有名スポーツ選手と同じ名前だったその子は、噂の放火親殺しの子だった。

成績優秀でスポーツも万能で、スーッとした顔は侍のようだった。

 これは誰にもしたことがないと言いながら、放火をして殺してしまった養母が、

優しかったことを話し、本当に感謝しているんだと彼は言った。

 プライドの高い子だった、彼の話はホントウだと私は思った。

本好きだという彼は、当時出たばかりだった小松左京の“日本沈没”を読んだかと私に

聞いてきた。

 私は、その時それを読んでいなかった。

まだ読んでいないと言うと、それまで読んだ本の話を競うようにしていて、その数が私に

全く及ばないでいた彼は、嬉しそうな顔になって笑った。

 自分の誕生日は、神様の誕生日と同じ日なのだと言った時の彼も嬉しそうだった。

 

そこの子供たちに、「絶対に負けるなよ」と私は言った。

「ヤケになったり、自分にウソをつくことは、負けだ」と言った。

「自分を大切にして、守ってやるのは自分しかいないんだ」と私は言った。

子供たちにそんなカッコイイコトを言いながら、私は、麦が沢山入っていてグニャリ

とした固まりのあるご飯は、口に入れると吐きそうになって飲み込めなかった。

下痢が止まらず、水の様な便が泡になって、家に電話を入れた。

両親が下痢止めの薬とカステラを持って少年院にやって来た。

親と面会の時、教頭が立ち会った。

「こんなに弱い生徒さんは、今までで初めてですね。育て方が甘かったんじゃないで

すか?」と親は言われ、薬は渡されたが、「カステラはお持ち帰り下さい」と言われた。

 

 実習が終わってから、暫くの間、私は以前のように毎日を楽しめなくなった。 

自分の生きている世界が手ごたえのないウソの世界のように感じられて、身の置き所が

なくなった。

 食事が喉を通らず、50キロ近くあった体重が40キロ近くまで減ったことと同時に

今まで見たことのない世界を見たショックからそうなったのだと思う。

 しかし、そういう体験をすると今まで怖くて耐えられないと思っていたことが、それ程

大変なことじゃなかったと気付いたり、それまでは疑問を持たずにしていたことが、逆に

突然怖く思えるようになったりする。

 

 2006年

あれから32年経って、サンカの本に出会った。

“漂流の民サンカを追って”筒井功著

それを紹介する件には、

サンカ…。戸籍を持たず、定住せず、季節の移ろいと共に移動して寺院の軒先や山中

河原などに野営し、主に農家を相手に箕作り、竹細工、川漁、物乞いなどで生計をたて

ていた集団に属する人たちのこと。

その系譜(けいふ)は、中世以前に遡り江戸期の被差別民「えた」「ひにん」が人別帳に

登録されていたのに対してサンカは、登録されず法制の外に置かれて賎民(せんみん)視

されていた。

その一方で自然と共生する素朴な人々の姿は制約に縛られて生きる人々の憧憬(どうけい)

を呼び、戦前の大衆小説では美化されてきた。

昭和20年代には関東で千家族を越えた彼らは、高度成長期を経て姿を消した。

と、あった。

 

 長年に渡ってサンカについて調査しまとめられたその本には、「その日暮らしのような

その暮らしの中で移動箕作りは工人であり、宗教者として芸能者としての伝播(でんぱん)

者でもあった」と書かれていた。

「彼らは、神仏の教えを説いて札を配ったり、有名寺社への代参を請け負い喜捨を乞いた。」

とあったが、あの時の、あの娘は今何処で、どんな暮らしをしているだろう。

 

       社会からはじき出される者がいる。

社会に紛れる者がいる。

               そして、社会を捨てる者がいる。