せみ

 

小学生の夏休み、毎日宿題もせずに家から抜け出し、いろんな所をウロウロしていた。

どこに行くというあてもなければ、目的もない。

心細いような嬉しいような気持ちでいた。

空は真っ青で木陰は黒々と、雨が降るようにセミの声がしていた。

日射しは眩しく、首筋はぬるぬると汗ばみ、それでも、木陰と時々吹く風は

最高に気持ちが良かった。

 いつも母親に呼び止められやしないかと忍び足で、そのくせ足早で家から離れ、

その声が届かない位の所に来ると、やっと大きく息をして、

草花や虫、人の家などを観察しながら、歩き出した。

大きな木と、生け垣の間の細い道を通り抜けるとき、人の声が聞こえる。

それは、親に叱られている友人だったりする。

 

どの木にも草にも、セミの抜け殻がついていた。

手に取ってしみじみ眺める。

飴色のそれはすばらしく精巧で、何度見つけても嬉しく、飽きず見入った。

 セミの抜け殻も魅力的だったが、

生きた身体をブルブル振動させて、ジージー、ミンミン鳴くものは又、格別だった。

虫捕り網がないとき、棒の先に針金でワッカを作り、そこにクモの巣をからめとって

セミやトンボなどの採集をした。

クモの巣は、黒と黄色の縞の大きな腹をした、女郎蜘蛛のものが一番丈夫であり

粘着力も強い。

しかし、羽の弱い柔らかい虫は、クモの糸にくっついて離れず

無残なことになってしまう。

かといって弱い糸ではセミには破られ逃げられてしまう。

だから何を捕らえるつもりなのか、目的をはっきりさせる必要があった。

そしてどういうわけか、用意したクモの糸には向かない獲物が見つかるのが常であった。

 

家から一キロほど坂を登り下った所にお寺があった。

北側に墓があり、境内にも周りにも木が繁っていて、セミの声が途切れることがなかった。

その日、虫捕りの準備はしてなかったが、お寺の入口に来ていた。

何か、面白い物はないかと、いつものように、地面に這いつくばって

アリが芋虫を運ぶのを眺めたり、草花をちぎったり匂いを嗅いだりしていた。

 

その時のことを、あれから四十年以上も経つというのに、はっきりと覚えている。

木で作られた鳥居からポトリとセミが落ち、ジージーと地面にのたうったのだ。

その時の自分は、目は輝き、胸はときめき、はち切れんばかりだった。

急いで、それを手に包みこんだ。

手の中でジージーと震えるセミ、手をそっと開いてみたが 何かおかしい気がした。

よく見て、ゲッとなった。

その薄い透き通った腹の皮から、中が見えるのだ。

腹の中は空っぽで、よく見るとウジのような虫が動いていた。

その虫は、腹の中をきれいに喰い尽くし、胸の方へと移動していた。

羽をバタバタさせ、ジージーと鳴く声は、空っぽの腹を、ビリビリ振るわせていた。

もう、それは飛べなくなっていた。

手のカゴから出されたセミは、乾いた地面の上をグルグル回るしかなかった。

暴れては休み、休んでは暴れる。

それを何度も繰り返し、動かない時間が長くなっていった。

私は、ついに意を決し、もう抜け殻のようになっているセミの腹を裂いた。

木の枝で虫を外に出し、踏みつぶした。

破れを合わせると、セミは元通りに見えた。

叢(くさむら)の上に、まだ微かに動くセミを置いた。

 

 その時、青空に突き上げ、地面に浸みる、寺の読経のようなセミの音が絶え間なく

降っていた。

 ひぐらしが、一斉に鳴く時がある。

その時、音が、すべての音を消し去る。

「静けさや 岩に浸みいる せみの声」とは、

音によって、音の消された世界の様な気がする。

海の風音や波音、河川の水音で、ふっと気が遠くなる時がある。

その時の私は、セミの声に、同じものを感じていた。