四国

 2006年4月6日、四国に向けて出発した。

2001年3月18日に私の中の何かが壊れた。

身動きの取れない状態で布団の中で思っていたのは、「いずれ、お遍路に行きます」だった。

それから5年が経った。

 

一人で行くつもりでいたが、次女も行くと言い出した。

前日の5日は、東京に住む次女の美樹の家に泊まり、二人で近所の寿司屋に行った。

そこで、“吾、唯、足、知”の印を見つけた美樹が、その意味を聞いてきた。

「口を中心に吾、唯、足るを知るという意味だよ」といったが、自分は本当にその意味を

知っているのだろうかと思った。

 明日から禁酒しようと話しながら、寿司屋で飲んで折り詰めを持って帰宅する。

ところが、美樹の家では、醤油が切れていた。

塩ミソ醤油は、切らすんもんじゃないと言いながら、塩で食べた寿司は美味くなかった。

翌日、二人で東京駅に向った。

新幹線に乗り、岡山経由で香川県に入った。

 オーバーオールを着てリュックを背負っただけの私は、音楽を聴き、心弾んでいた。

列車は海上の島々を見送りながら、走っていく。

 まだ明るいうちに宇多津に着く。

ローカル線で移動。無人駅で降りる。

駅の南に見える小高い丘の上に“海岸寺”はあった。

石段を登ると、白く煙った夕暮れ前の海が見えた。

 駅の周りにもお寺にも花が咲き乱れていた。

甘い匂いが、微かな潮風の香りと共に全身を撫でていく。

 「同行二人(どうぎょうににん)」という文字が目に入った。

 

最初は、美樹も春爛漫の花々や空気、風を楽しんでいたが、すぐに普通の人間になって

いく。

「これから何処に行くの?」

「何処にしようかねぇ」

「今日は何処に泊まるの?」

「何処にしようかな」

「決めてないの?」

「勿論」

「どうして?」

「それがしたくてこっちに来たんだもの」

「どういうこと?」

「何も決めずに、何も考えずに、一人だけど一人じゃなくて、何もしない訳じゃなくて、

何もしないために来たんだよ」

「分かんない!」

「そう、今を楽しんでください。総てはなるようになっていくから」

「だって、今時期は、泊まるところはイッパイだって聞いたでしょ!?」

「うん」

「だったら、何で泊まる所見つけておかないのよ」

「いいんだよ、見つからなかったら野宿でもすればいいんだから、美樹ちゃんは野宿

イヤ?」

「いや、別に」

「そうだよね。高校辞めた頃なんて帰ってこなくて、どうしてたのって聞いたら野宿した

って言ったじゃない?どうやって野宿するんだか教えてよ」

「別に、ファミレスに居ただけだよ」

「それもいいんじゃない?その時って楽しかった?」

「うん、あの頃は何やっても楽しかった…」

「よし、泊まるトコ見つかんなかったらそれにしよう!」と言ったのだが、

初日は駅のタクシーの人が問い合わせをしてくれて“かんぽの宿”があいていた。

「ここは人気の宿で、今時期あいていることは殆どないんですよ」とタクシーの運転手が、

宿に着くまでに何度も言った。

“母神(はがみ)の湯”は、温泉でよくあたたまり、夕食の刺身は新鮮すぎるくらい

コリコリで美味しかった。

 

美樹は先のことを心配する人だということに、私は気が付いた。

何かしていると、こんなことしていていいのか、これからどうするのかに気が行くようだ。

ゆっくり歩こうよと言っても、ドンドン歩を進めていく。

花の上に虫を見つけて立ち止まっていると、いつの間にか美樹はずっと先に行っていて

その虫を彼女に見せることが出来ない。

 朝になると、

「今日は、何をやるの?」と聞いてくる。

「何でもいいよ」

「何か決めないと、どうしたらいいか分からないでしょうよ」

「じゃあ、美樹ちゃん、決めていいよ」

「お母さんが、ココに来たくてきたんだから、お母さんが決めなよ」

「お母さんは、決めたくない」

「何で!?お母さんはどうしたいの?」

「どうしたいって、何も決めないで、足の向くまま気の向くまま、イキアタリバッタリに

行きたいなぁと思った方向に、その時を楽しみながら歩いていきたい」

「何言ってんの?バカみたい!」と美樹はだんだん怒り出す。

 

列車の移動は楽しかった。

色んな人が、乗って居る。乗って来る。降りて行く。

田んぼや畑、山、桜、菜の花、雲、青空、四国に居る間、ずっと青空だった。

線路と平行して続いている小道を、マラソンで走っている学生。

真面目に走っている男子生徒、ふざけて絡み合っている犬のようなやつら、今時ミツ編み

の女子生徒。おしゃべりしながらの女子の集団。

 

雲辺寺でロープウェイに乗る。

石で彫られた仏の群れ。山に登ると現世から離れる気がする。

その名に惹かれ、観音寺(かんおんじ)に行く。

歩き疲れ、腹が減り公園に行き着き、たこ焼きを食べる。

ここでも美樹の「今日は何処に泊まるの?」攻撃が始まる。

「何処でも、何処かはあるよ。でも、見つからなくても面白いよね」そう言ったのだが、

歩いていて、ホテルを発見する。

喉が渇いていた私たちは、コーヒーを飲みたいと立ち寄ると、中庭にテーブルを出して

くれた。

 午後の日差しが、木漏れ日となって私たちの顔や手に降り注ぐ。

そこのホテル“琴弾荘”(ことひきそう)に泊まることにする。

「本日、ここに泊まりたい」と、フロントに申し出ると、

「こんなことは、今時期ないんですが、丁度一部屋空きまして」とその人は言った。

チェックインして、辺りを散歩する。

壊れると、懐かしいの字は似ているが、壊れかけた家のレンガ塀が、やけに懐かしい。

何処にもかしこにも花が咲いてる。

琴弾廻廊(ことひきかいろう)、海の見える温泉を見つける。

早速、入浴。

ヒノキの内風呂からもガラス越しに海が見える。

広い露天風呂に出ると、湯気の立つ身体に海風が快い。

まるで、身体から出る邪気が湯気となり、それを海風がさらうことで、心の邪気が

浚(さら)われるようだった。

 透明な湯の底まで射すお日様に、白い身体がゆらゆら揺れていた。

美樹は岩の上に座って海を見つめていた。

「おーい、サルー」と美樹を呼ぶと、振り返った美樹が笑った。

 

琴弾荘の西側には、瀬戸内海が広がっている。

松の木の下に座って、日没を過ごす。

犬を走らせている男がいる。子連れの家族の笑い声が聞こえる。

「寒くない?」

「うん、大丈夫」

赤い地平線となった太陽が、海に消えても、海はまだ明るい。

 

琴弾荘に戻り冷えた身体を風呂で温める。

由緒正しいホテルのような、古い立派な建物なのに風呂が下水臭い。

美樹はそれが懐かしい気がすると言った。

風呂上りにフロントの前を横切ると、そこに居た支配人が、

「ここは、何年か前の台風で一階部分は全部水に浸かってもうダメかと思ったんですよ。

それが、ここまで再建出来たんですけど、まだ今でも完全には直っていないんですよ」と

言った。

海の見えるレストランでのディナーは、一つ一つが丁寧に作られたコース料理だった。

ゆっくり夜は更けていった。

 

8日は、徳島に行きひょうたん島の周りを流れる河の舟めぐりをした。

ひょうたん島の川には、そこに生息する生物生態が分かるようになっている場所があり、

船着場があった。

そこの舟を動かしているのも説明をしているのも、街のボランテアの人たちだった。

舟が川の上を走っていくと、橋の上からも、川岸の家からもみんなが手を振る。

エンジンの音に負けないように拡声器から説明の声が流れ、水音も負けていない。

霧のようにかかる水しぶきが気持ちいい。

川横のアパートには若者が住んでいるとみた。

サーファーのウエットスーツが干してある。

「何時までいるの?」

「さあ、何時までかなぁ」

「お母さんは、こんなことしていて楽しいの?」

「うん、楽しい。美樹ちゃんは楽しくないの?」

「考えてみたら、楽しくない気がする」そう言った美樹の目は、空を見ていた。

 

4月8日の花祭りの日に、四国に居たいと思ってきた今回の旅だった。

何日居てもよかった。何時帰ってもよい旅だった。

「この電車に乗ってみるか」と、来た電車に乗った。

適当な駅で降りた。

イキアタリバッタリの旅は、お遍路さんの歩き方をまるで無視していた。

札所は一番から順に廻るもんだと聞いたが、順番は最初から考えていなかった。

白装束の欠片もないが、私の中にはキマリがある。

寺に入れていただく時に頭を下げて挨拶し、中に入ったら大声でしゃべらない。

勿論、ゴミなど出さず、花一輪でも踏んではならない。

最後に出る時は、有難うございましたと頭を下げる。

それは、当たり前、当然至極のことで一々教えられてすることではない。

 しかし、そこには「ゴミを捨てないで下さい」

「置き引きが発生しておりますが当寺では、責任を負いません」

「花をとらないでください」と立て札が目立つ。

 白装束の一行がマイクロバスから元気に降り立つと、大声で話し、笑いながら寺に入っ

て行く。そして、寺の中でも、「キャハハ、キャハハ」と嬉しそうな一行。

仏の声は、口を閉じて耳を澄まさなければ、聞こえない。

お遍路の格好をした人の群れが、道端にゴミを置いていく。

苦しみの中にいる人を食い物にする人もいれば、分からないところで見守る人もいる。

 

札所の他にも、寺が点在する。

小高い丘の急な石段を登って行くと、朽ち果てた寺があった。

誰一人おらず、鳥の声だけが聞こえる。

傾いた格子戸が風に吹かれていた。

人家や畑の間には矢印が立っていて、近くの寺を示している。

鳥の声、人の住む家、咲き乱れている花々、花の香り、風が頬を撫でる、青空、山、白雲。

マイクロバスの人たちは、この一番ステキなものを見ていない気がする。

 私たちを追い越していった若い男性。まだ、20代だろうか?

デイバックを背負って黙々と歩く、その彼の今の人生を、ふと思った。

 

そこに来る前に美樹と諍(いさか)いがあった。

電車で何処に行くかを迷って、同じ所を行きつ戻りつする私に、美樹が怒り出したのだ。

「何でそんな無駄なことしてんの?!」

「無駄って何?」

「どーせここに来るんだったら、こっちに行く必要ないでしょうよ」

「何で必要ないの?」

「だって、こっちは遠回りで、行くだけ無駄でしょうよ!」

「無駄ではダメなの?」

「同じ所、行ったり来たりしたって何の意味もないでしょうよ!」

「そんなこと言ったら、今回の旅行なんて全部無駄だし、必要のないもんだよ」

「何処に行くか決まったら、何処から行ったら一番早いかお母さんは考えないの?」

「そりゃあ、考える時は考えるよ。でも、何を急ぐ訳でもないし、行かない筈の所の景色

も見られたんだし、いいじゃないの。それも2回も」

「お母さんって、若しかして頭悪い?」

「エッ、今まで気が付かなかったの?」

「えーっ、お母さんって若しかして鈍感?優柔不断でイキアタリバッタリの考えなし?」

「そーだよ。ずっとそう言ってきてるじゃん。お母さんは、凄く勘がいいところと鈍感な

ところだけで成り立ってるから、普通の人が分からないことが分かるけど、普通の人が

分かることは、分からないからねって」

「そーだったんだぁ」と美樹は言った。

美樹は、自分の気持ちを私が分かっていながら逆なでしているのだと思ってきたらしい。

以前に同じ話をした時は、

「お母さんは、自分を直そうって気はないの?!」と怒った美樹だったが、

今回は、「そーかぁ、お母さんは気が付かない人だったんだぁ」と何度も言った。

 

話しは変わるが、私は物心ついた時になりたかったものは、仙人だった。

その頃、仙人という言葉は知らなかったが、まあ後になって知った言葉で一番ピッタリ

するのは仙人だった。

 物書きも、なりたいものの一つであるが、物を書くためには、自分の想いと経験が

土台になる。そして、本当の満足も必要となる気がする。

そのためには、仙人として生きねばならないのだ。

私が思う仙人になる一番の条件は、邪心、欲得、支配欲や見得、嫉妬、恨みなんかを

消していくことだ。

邪心を持たないようにと言っても、邪心というのは私の場合、根っこのところにある。

持たないもなにも、既にあるんだからザンネーンって感じで、それを抑え消す努力をしな

ければすぐに蔓延(はびこ)りだすのだ。

そして、その努力は、毎日死ぬまで続くのであろうと思う。

 次に邪心を抑えられるようになると平常心がやってくるから、瞑想によってもっと心を

自由にしてやる。

全身から力を抜いて、心も柔らかくするんだ。

でも、力を抜くというのは、力が抜けてしまって、腑抜けになって筋がと通らないこと

とは全く違うことであることを忘れてはならない。

先を見ながら先を見ない。全体を見ながら、今を見る。

分っかるかなぁ?

今を見て楽しむ。今を楽しまなければ、明日もない。

楽しいことがない時こそ、楽しむ。

生きることを楽しむ努力をしない者に限って、「だって、楽しいことがないんだもん」

なんてバカなことを言い出す。

バーカか!条件が揃わなきゃ出来ないなんてのは、甘えん坊のガキ。

感謝だって良いことがあったからって感謝するのなんか、当たり前のコンコンキチで、

嫌なことに感謝して初めて、感謝って言うんだ。

 条件が悪い時にどれだけ平常心でいるか、その状態に感謝して楽しんで、良い状態に

持って行くか、そこに人間の真髄がある。

楽しくない、辛いことを楽しめるようになったら一人前だ。

ひがまない、落ち込まない、ナニモノもバカにしない。イヤにならない。

何でも楽しむ。こーれが、仙人じゃ。

 最近、ワシは朝が起きられるようになった。

これも仙人の条件。

朝日を浴びての瞑想、体操、草むしり。メダカの観察。

仕事は、みんなが起きる前に終わらせておけば、自由な時間が出来る。

日中もやりたい仕事が出来る。

 日が暮れる頃には、心静かにちょっとイッパイ。

夜は、月が空を渡っていくのを毛布に包まって飽かず眺める。

 貧乏になったらそれも一興、モノやお金がないところにどんな面白いことを見つけるか

それを考えると楽しい。

 

しかし、こんな私のもとに生まれた二人の子供は、私の被害者なんじゃないだろうか?

母親にも「お前は自分勝手で回りの人のことを考えない人間だ。

お前は自分さえ良ければそれでいいのか?!」と言われて育った。

 私は、自分のペースで生きたいと思うが、誰かに意地悪したり、支配したりした覚えは

ない。

 私は、旅行に行く時、手に何も持たないようにしている。

両手を振って自由に歩きたいからだ。

でも、沢山持ちたい人は、持ったらいいと思う。

しかし、自分の物は自分で持つべきだと思う。

 沢山の着替えの入ったスーツケースを持ち、帽子を被り、その上バックまで持つ人が

居る。持つのは勝手だが、その上お土産の紙袋やら何やらで両手が塞がる。

 そして、近くに居る私はそれを持ってやる羽目になる。

持ってやらなきゃいいじゃないかといわれるが、ボロボロと荷物を落としウロウロと路頭

に迷っている人がいると見てみぬ振りが出来ない性格だった。(ここに注目、過去形)

 でも、もうそれを止めることにした。

 私は、お土産を買わない主義だ。年賀状も出さない。年末年始の挨拶もしない。

あー、話が逸れていく。

 つまり、みんな自分の思うように生きていったらいいんだ。但し人に迷惑を掛けない。

自分の始末は自分でする。

私は、もう余計なお節介をしない。

持ちたかったら、自分で持てるだけ持てばいいのだ。

持てなくても持ちたいんなら、自分でどうにかするだろう。

欲しかったら、努力する。努力するのが嫌なら諦める。

頑張っても手に入らなかったら、もっと頑張るか、諦める。

みんな、それぞれが決めて、それぞれが行う。

 私は、私の人生を歩くしかない。人の人生に口出しは止めだ!

それが例え自分の子供であってもだ。

 美樹の言葉で、そう心が決まった。

 

そのお釈迦様の誕生日、或る駅の近くの民宿に泊まった。

ここに“オチ”があったなんてねぇ。

 お寺を何ヶ所か歩いて、夕暮れに駅に向うと美樹が「一回、民宿に泊まってみたい」と

言い出した。

「じゃあ、片っ端から聞いてみるか?」何処の民宿にも満員の札が下っていた。

「こんな所に空きはないかもしれないね」と夕飯の焼き魚や味噌汁のニオイが漂う横道を

歩いて行くと、

「ちょっと、ちょっと」と太ったオバサンが手招きした。

「今夜の宿は決まっているのかい?」

「いえ、まだ」

「それは良かった。こんな時間に空いている宿はないよ。

ウチだって本当は満杯だったんだから。

それが、急にキャンセルになちゃって、ウチに泊まりな!」

オバサンは、私の手を掴まんばかりに強引だった。

「うーん」と美樹を振り返った。ちょっと考えたかったが、

「オトーさーん、お客さんだよー」とオバサンは家の中に向って大声で怒鳴った。

ガランとした印象の家で、一階にも二階にも8畳位の部屋が並んでいた。

オトーさんに二階の部屋に案内された。

オトーさんは、大きなアルミの薬缶にお茶を入れ、湯のみを二つ指に引っ掛けていた。

部屋に入ると、床の間に立てかけてあった「ここに泊まるにあたっての注意事項」と書か

れた板切れをタタミの上に置いた。

何をするのかと思っていると、そこに薬缶と湯のみを置いた。

「朝は6時から朝食、夜は早く寝るように、他の人の迷惑になるから。

お風呂は、もう入れる」と言ってオトーさんは、部屋から出て行った。

二階には6部屋ほどあったが、どの部屋も空いていた。

お風呂は一階の駅側にあった。

美樹と二人で風呂に入る。

入り口にカラーボックスが置かれて、そこに浴用タオルが畳んで入っていた。

何度も洗われたタオルは、みんな温泉宿の名や銀行名の入ったものだった。

まだ、外は明るく風呂場の窓から見える中庭には洗濯物が干してあった。

何もない中庭だったが、空が見えて沈丁花の香りがした。

「おばあちゃんちに泊まりに来た感じだね」と美樹が嬉しそうに言う。

美樹は、田舎や年寄りものに安心を覚え気持ちが安らぐのだという。

お風呂は一般家庭よりは大きいが、お湯が少ない。

「何で、こんなにお湯が少ないの?」

「お客さんが、キャンセルになったからじゃない?」

風呂の湯は座っても胸までしかこない。

「お湯を足しては悪いから、横になって入ろう」と腰をずらして入浴する。

風呂から上がると、「先にご飯済ませて下さい」とオバサンが言った。

7時前だったが、一階の一部屋に用意された夕食を頂く。

今日の泊り客は誰も居ないのかと思ったが、私たちの他にお膳がもう一つあった。

食事をしていると、隣のお膳に若い女性が座った。

30歳代のその人は、首に包帯を巻いていた。

何かと話し掛けるオバサンに、会社を辞めたことや、お遍路さんは初めてだと話している。

オバサンもオトーさんも、80歳を超えていると聞いて、私は感心してしまった。

これだけの民宿を二人だけで賄っているというが、その俗っぽい感じは何かが現役と

いう感じだった。

 

早々に部屋に引き上げ布団を敷く。

押入れの中には、干した様子のないかび臭いせんべい布団と、半分もカバーの掛かって

いない掛け布団が入っていた。

久し振りに見た貧相な布団だった。

寝巻きと腰紐はよれよれで、洗濯してない様子だった。

女物の寝巻きを着たが、化繊で縫い糸はテグスのような糸でチカチカして着ていられない。

色の褪せた男物のガーゼの寝巻きに着替えて、

「これ、どー思う?」と美樹に言ったが、あまりのことに可笑しくなって笑いが込み上げ

てきた。

「お母さんは、生きてく力弱いよね。何か起きたら一番最初に死ぬね」と美樹が言う。

「お母さんって、何だかんだ言って野宿なんて絶対無理だからね」とも言った。

身体が冷えて眠気がきていたが、布団に入ると眠れない。

当たり前だ、まだ9時前だ。

灯りを消してテレビを見ていたが、眠くなったらしい美樹がテレビを消してくれと言う。

テレビも消して障子からの光だけになる。

まだ駅への道を歩く人の声が聞こえる。

そのうち、部屋の中でピチン、ピチンという虫が電燈に当たるような音がし始めた。

今頃虫は居ないだろうと思いながら、ウトウトと眠った気がした。

私はイビキをかくらしい。美樹の機嫌が悪いのは睡眠不足もあったらしい。

「あたし、違う部屋に寝ようかな」美樹が言った。

「あー、そうだよ。こんなに部屋が空いているんだもの、お母さんイビキはコントロール

出来ないからね」

「あたし、イビキもお母さんの意地悪かと思ってたよ」と美樹は布団を抱えて隣の部屋に

行った。

その後もピチピチ、パチパチは続いたが、手が暖かくなり眠りについた。

後で聞いた話によると、その晩の美樹の耳元では、ずっと寝息が聞こえていたという。

私の寝た部屋と美樹の部屋の間には、押入れがあって寝息どころかイビキも聞こえない。

 

翌朝、6時前に目覚めた私は、美樹を起こしに行った。

「昨日眠れなかったの、ご飯はいいから寝かせて」と美樹は言った。

一階に降りて行くと私たちのお膳の横に、昨日の女性が白装束で座っていた。

客はその人だけだと思っていたが、もう一人白装束の男の人が居た。

今日からお遍路を始めるというその女性にその男の人が注意事項を伝授していた。

無理はしないように、その日に泊まる所は見つけておくように。

悪い人もいるから誰でも信用しないように、お金は小分けして持つように。

常備薬や応急処置の用意は必ず持っているように。

 その男性は、定年前から続けていた八十八ヶ所の霊場を巡り終え、これからもう一度

一番から巡るか番外の札所があるからそこに行くか考えているのだと話していた。

食欲のない私は、味噌汁だけでも飲んでおこうと頑張っていた。

その時、二人が私の方を向いて

「あなたもこれから行かれるんですか?」と聞いてきた。

「今日は帰ろうかと思います」と言おうとした。

その途端、涙が溢れ出した。

唇が震え、明けたままの二つの目からあふれ出した涙がポタポタポタと味噌汁の中に

落ちた。

蜆の味噌汁だった。

これは、私に何か重大な事情があると思われてしまうと思った私は、

「別に、これといった事情はないんですよ」と言おうてしたが、嗚咽が溢れてくる。

二人は何もなかったかのように目を逸らせ、お遍路の話に戻った。

優しいなあと思うと、更に涙が出た。

 

 あれは、なーんだったんでしょ?

佐々氏に聞いたら、「来てくれて有難うって喜んでいたんですよ」と言った。

「そうなんですか?私の何かが、怒られたんじゃないんですか?」と言うと、

「そんなことないですよ。嬉しかったんですよ」と佐々氏は言った。

 

 私は春を満喫しながら、有り難いなぁと自分を解けさせていただけだった。

どうした訳だか、あれを境に美樹が親離れした気がする。