審判
最近、野球で、日本とアメリカの試合があった。
私は野球がよく分からない、分からないが見た。
トーナメント制だったが、アメリカは世界の強豪とは当たらない組み合わせになって
いた。
日本とアメリカの試合で日本の走者を最初セーフと判断したものが、アウトと変わった。
アメリカの審判員だった。
一度出た審判の判断が覆(くつがえ)されるというのは、前代未聞のことであるという。
しかし、その後に出たアウトの審判は、ビデオで事実を見ても変えられることはなかった。
野球の生まれたアメリカを開催地にして行われた、アメリカの行いである。
イギリスが世界の王者となり向かうところ敵なしだった時代に、
「イギリスよ、大人になれ」と言ったものがいると聞く。
権威、権力、力を持つということは、私欲を捨て公明正大、公平に物事を見て判断し
事を行わなければならないという荷を課せられるということだ。
力を持つということは、もう自分の欲に任せて自由に行動出来ないということだ。
家人が「いい勉強になったんじゃねえの?
この次の審判は第三国が、試合する国に恨みも関わりもない国がすることにしたらいいん
だよ」と言った。
いや、試合を行う国の者が審判をしたらいいと、いや、すべきだと私は思った。
そして、そこで戦うのは単にスポーツの勝ち負けだけではなく、どれだけ私情を交えずに
正しい審判を行えるかも競ったらいい。
身びいきをせず、へりくだることもなく、どれだけ毅然と行えるか。
真実を追究できるか。
それは、私自身の課題でもある。