塩

 

 前にも書いたかなぁ。

知人が、専門機械の販売とメンテナンスをする会社を経営している。

 何年か前の夏、その会社の前に救急車が止まっていた。

「どうしたのか?」と聞いたところ、

「会社の25歳になる若者が倒れて意識がなくなったのだ」という。

そこの会社名は横文字でエリートっぽいが、仕事の内容は作業服を着て遠距離まで移動し

油に汚れて重い機械を運んだり動かしたり、調整をしたりする肉体労働だ。

 

 その25歳は、両親が年老いて出来た一人っ子で大事に育てられてきた。その両親が

糖尿病だか高血圧だかで、身体に良い食事というのが、彼の毎日の食生活だった。

塩分控えめの野菜中心の食事。更にその母親は毎日お弁当を作って息子に持たせ、水筒

に麦茶や水を持たせ、コンビニなどで何かを買って食べるなどということはなかった。

 彼は、その老人病人食だけで、肉体労働をしていた。

その年は、夏の暑さが半端じゃなかった。汗で作業服がびしょ濡れになって着替える。

社長は「水分を十分に摂れよ」と言っていたが、塩分も摂れよとまでは言わなかった。

従順な彼は、水分は十分に摂っていた。

しかし、突然倒れて意識がなくなり救急車で運ばれることになった。

幸い命に別状はなかったが、本当に危ないところだったという。

 

(へぇー、塩分を摂らないで命に係わることなんてあるの?!」と思って、福島の炭鉱の

様子を再現した所を見学に行った時のことを思い出した。

 そういえば、暗くて暑い洞窟の中で、塩を舐めながら石炭掘り出しをしていたっけ。

母にその話をすると、

「おじいさんって人は、『今、砂糖が不足している』っていうと

コップの水に砂糖を入れて飲んで、

『塩が不足してる』っていうと、やっぱりコップの水に塩を入れて飲んでたぞ。

昔(昭和初期)は、お菓子なんて甘いもんもなければ、みんな汗をだらだら垂らして

働いていて、今みてえに塩分摂りすぎなんて言葉もなかったし、甘いものが身体に毒だ

なんてこともなかったな」と言い「それどころか、身体にとって大事なモンだったな」

と言った。

 

 話はちょっと変わるが、昔の食生活を見直そう。といことで“コジハン”を復活させ

ようという話を小耳に挟んだ。

 “コジハン”というのは、方言で朝食と昼食の間に、オヤツではなく食事をすることだ。

何故そんなことを復活させなければならないのか?と、私は思った。

 “コジハン”は、田んぼ仕事をする人が、朝、暗いうちに起きて朝食をすませて、

田んぼ畑に出かけて働いていると、オヤツなどというものでは足りないから、小さな食事

で“コジハン”が必要だったのだと思う。

 私も田んぼに“コジハン”を届けに行くと、御相伴に預かることになって、それは

楽しかった思い出があり懐かしい。

しかし、懐かしいことと、今それが必要かとなると別の話で、朝、4時5時起きして

朝食を摂り9時10時にコジハンを必要な人と、全く違う生活をしている人が、

何故同じことをしなければならないのか。

 若しかしたら、何か違う意味で“コジハンン”というものが必要と考えているのかも

しれないが、私はその時々の状況を見て事はあるべきだと思う。

 形だけを見て、これが良いことだと思いこむことは、今回のような老人病人食を健康な

肉体労働者に食べさせることになる。

 総てのことは、その人や状況によって、良いことにも、悪いことにもなるということ

を忘れてしまっているんじゃないかな。と、思う今日この頃で、

 鬱病の一時の状況は「頑張れ」と励ましてはいけないという事になると、総ての人に

「頑張れ」と励ましてはいけないような話になる。

塩分も糖分もその他の何かも摂りすぎは良くないという話を聞くと、まるで悪者で

あるかのような扱いになる気がする。

 どんなに良いと思われることであっても、100パーセント良いこともなければ、

悪いということでも存在しているということは、100パーセント悪いということも

ないんじゃないだろうか。と、思う。

 兎に角、現在の状況を正しく見ての判断。それしかない。ということは、答えは一つ

ではない。つうことなんだなぁ。

          あー、また堅い、堅いんですよね。私って。