師と弟子の関係

その関係は、権威に対する服従や、権威による押さえ込みでない。

お互いが、相手に対するリスペクト(尊敬と敬意)を持った上で、玉石を混交したり、

玉と石を間違えない、という考えの出来る、そうしようと努力する者たちによって

成り立つ関係だと私は思う。

権威ってやつは振りかざすものではなく、示そうとするものでもなく、それを認める

ものによって存在するものなんだと私は思う。

本当の意味での権威を持つものにとっては、それを持つことも、示すことも、認めら

れることにも関心がないんじゃないだろうか。

関心がないということは、それを無視したり嫌ったりすることではなく、

誇ったり威張ったり浮かれたりすることなどあり得ないと思う。

そして、その人を、本当の意味で師と仰ぎ慕う者は、師に対しての媚や依存はなく、

独占したいとか執着心を持たないんじゃないかと思う。

 

鳥喰みの唯円の子孫である西光寺の住職は、水戸市河和田の唯円の住職と会うことが

あるのだという。

 そこで、粗忽者の私が「歎異抄をまとめた唯円は、本当は鳥喰みの唯円だと思うので

すが」と言うと、住職は、優しい恥をかかせない話し方で

「んー、そういう説が出て回りの方が気にしてるみたいだけど、この間も河和田会った

時に話したんですよね。

それで、どっちの唯円がまとめたんだっていいよなぁ、あんな凄いもんに巡り会えた

私たちは幸せだよなぁーって、二人で話し合ったんですよ」と、住職はおっしゃった。

 ちぇ、私も本当はどっちの唯円がまとめたかなんて、手柄争いみたいなこと気にして

ないことぐらい分かってた筈なのについ言っちゃった。

 でも、そうそう、ホントにそう、ホントウの弟子だったら誰が言っただの、

誰が一番だのなんていうツマラナイ小競り合いなんかするわけないんだよね。

それが、いろんなところで、これをやってるから、宗教が気持ち悪いことになってるん

だよね。

どの神も仏も同じもんなのにねぇ。

それと、宗教があるということは、ある意味一本芯が通っているようでいながら、

それがあることによっての安心が慢心になり、なまけに繋がる気もするんだよねぇ。

これさえやっておけば大丈夫というものが欲しいもんだ。安心ってやつ?

だから、保険をかけたり、大學に行ったり、美しくなろうとしたりするんだよね。

でも、それだけを拠り所にした時に大事なことがおろそかになるってのも事実なんじゃ

ないのかな。

親鸞は念仏を唱えよう、仏にお任せしようと思ったとき、もう救われているんだと言う。

他力本願の心を持って念仏を唱えていればそれだけで救われるんだけど、

ただ念仏を唱えるだけでは、意味がないのだという。

 

信じるということと縋る(すがる)ことは似て非なることだ。

似て非なること程厄介なことはない。ニセモノほどホンモノにそっくりで人を欺く。

 人を守り育てる、一番大事な世界にこそ似非教師(えせきょうし)が存在する。

人の命を守り救うべきところに、人の命も心も眼中にない権力と金に目が眩んだ人間が

幅を利かせる。

 そうかと思うと、世の中から排除されている中にホンモノが居たりするんだ。

 正に玉石が混交しているのが、世の中なのかもしれない。

でも、人間の職業に貴賎はないし、人に上下はないと思う。

あるとしたら、その人の考え方と生き方なんじゃないだろうか。

今をどれだけ地に足付けて、真剣に生きているかということだと私は思う。

ソクラテスは、“生きるということと、良く生きるということは違う”って言ったらし

いけど、そういうことだと思う。

 

 毎日の生活は、不安に満ちているその不安から開放されたいと思うその時、

これをしているから大丈夫だという確証が欲しい、それを形だけに求めたときに

それがないものへの否定となっていく。

だけど、どんなことでも必要のないことも存在しなければ、それさえしていれば、

それだけで許されるということもないんじゃないかと私は思う。

 

しかし、弟子が誰かを師と仰ぐことはあっても、師は自らを師だなんて思っていない

じゃないだろうか。

親鸞は、人間はどんな人でも、自らの中に悟りを、真の幸福を求め真我を持つ

菩薩なのだと言った。

親鸞は、親兄弟自分の為に念仏を唱えたことはないという。

そして、親鸞は、弟子を持たずといったと聞く。

しかし、親鸞がいくら弟子を持たずと言っても、彼を師と仰ぐものは居た。

彼らは、同志でありながら群れず、媚びず、付和雷同することのない、和して同ずること

のない、菩薩に対する想いで生きていったのではないだろうか。

そこには、上下の関係などなく、全ては同じ道を歩むものとしての同胞(はらから)

となっていたのではないだろうか。

弟子がホンモノの弟子であった場合、そこに競争や小競り合いはない。

執着心も独占欲も…。

あるのは、同じ道を歩む者の共感と敬意。一人で歩む厳しさと覚悟。

でも、そこに孤独はない気がする。

 

一人一人の中にマスターがおり、怪物が潜む。

それを統括するのは、自力であり、他力である。

そして、自力もまた他力であり、他力も自力であるとよく分からないけど、思うんだ。

 

      私が何を言いたいのか、分かっけ?

分っかんねーだろうなー、私もよく分かんねー。