スイミー

 知人が、小学校六年の息子を連れて来た。

標準より大分細く、アトピーによる皮膚の炎症が、顔から首にかけてある。

チック症状も出ていた。去年は、学校に行けなくなり心配したと彼女が言った。

 彼には、妹が二人いる。

その末の妹と会ったことがあるが、彼女の中に何に対してなのか、強い憤りを感じた。

 彼は、母親の横で私と母親の話しを静かに聞いていた。

彼が、学校に行けなくなったことは、先生が関係していると思うと彼女は言った。

昨年の春に校長先生が変わり、新しい校長がエリートの先生と共に赴任してきた。

その新しい先生が彼の担任になった。

それまでの学校の校風は、のんびりしていて子供たちも伸び伸びしていて授業中も

皆競争のように手を上げるような活発な雰囲気であったという。

それが、新任の校長の方針と担任になった先生によって一変したという。

授業でどんどん発表しなさいと言っておきながら、言葉尻を捕まえて注意する。

そして、授業中手を上げる子は一人も居なくなった。

すると先生は、「発表しないなら皆Cだからね!」と怒り出したという。

彼の学校は、ABCの三段階評価である。

その先生は、自分のしていることに気付かないのだろうか?と思った。

やる気満々で手を上げて「あのー」と言った途端に

「あのーは、いらない!」と話の腰を折る。

話しの内容に行き着く前に、てにをはといった部分に注意が入る。

すると、子供は何を言おうとしたのか忘れてしまうのだという。

そして、手を上げる子がいなくなった。

 

彼は、正義感がありエコヒイキが激しいその先生に文句を言った。

すると、先生からの無視が始まり周りの子供からも孤立してしまったのだという。

今も学校に遅れて行っているという彼に、私は言った。

「私は、君がスイミーのような気がする。

スイミーは他の魚と色が違っていたんだよね。

だから、そのために仲間はずれになったり、群れから追い出されたりしたんだ。

でも自分の色が他の魚と違うことから、仲間を集めて統率して救うことができたんだよ。

スイミーであるということは、目立つから辛い目にあうことになる。

それが嫌だったら他の魚と同じ色になることだね。

私は、君がスイミーのような気がするんだけど、君は、スイミーになりたいと思う?」

すると、彼は静かに「なる。」と言った。

声は小さかったがきっぱりとした声だった。

スイミーになりたいではない、スイミーに“なる”と彼は言った。

 

 南方熊楠の十二支考の中に白馬の話がある。

白馬は、人目を惹く。したがって戦いの最中、それに乗れば敵の標的になることとなる。

しかし、敵の眼に付きやすいことは、強いと定評のある輩がこれに乗った場合

敵は戦わずして退くことになる。無駄な争いをしないで済むのだ。

そして、白馬を好む者と嫌う物がいる。

どちらが良いとか悪いとかでなく、スイミーとスイミーでない者がいるのだ。

世の中にスイミーが増えていると感じている。

彼が「なる。」と言った時、私はホッとしていた。

スイミーはなるのではない、スイミーとして生まれてくるのだ。

そして、それを受け入れた時に、初めて自分を生きられる。

 

私は、彼に言った。

「君は今のまんまで良いんだと私は思うよ。でも学校に遅れていくのは止めなさい。

先生や学校に対する不満を遅れていくという形で伝えようとするのは、私は違うと思う。

そして、学校に行かない時は、学校に行けないんじゃなくて“行かない”で欲しい。

誰かが心配するからとか迷惑を掛けるからと、誰かのために何かを行なうんじゃなくて、

自分が決めて決心して自分のために行って欲しいと思うんだよ。

君は、弱かったり臆病だったり、間違っていることが嫌だったり、皆を想う優しい君の

ままで、そのまんまで良いんだと私は思う。

でも、気持ちをしっかり持って欲しいんだ。

自分の気持ちをしっかり持っていればどんなことでもダイジョウブだって気がするんだ。」

そう話しながら、彼の眼が変わったと私は感じた。

 

 しかし、彼がスイミーであろうがなかろうが、それが問題なのではない。

先ずは、ありのままの自分を認めることだ、そして、意地にならずかといって媚びず、

自分を特別視したり特権意識を持たず、さりとて自分を否定せず、自分をありのままで

受け入れる。

 いやにならず、ヤケを起こさず、気力を失わず、自分の本当の心に戻って欲しい。

誰の心も同じ故郷を持っていると私は思う。
今、どんなに気持ちが荒れているように見えても、やる気も気力がないように見えても

心の故郷はみんな同じ所にあると私は思う。

 

わざわざ苦しいことをする必要はないが、苦しいことや嫌なことはないほうがいいこと

ではない。

 苦しくて嫌なことは、見えなかったものが見えてくる。

 大事なことは、それをどう受け止め、自分がどう生きていくかだ。

 

あなたは、毎日が楽しいですか?

生きることは面白いと感じていますか?

あなたは、やりたいことがありますか?

あなたは、そういう自分に満足していますか?

あなたは、何をやっていますか?

 

実は人間は、みんなスイミーなんじゃないかと私は思っている。

淋しさと不安から仲間を欲しがり群れたがる人間。

しかし、そこで自分を見失いたくない。自分の心を殺したくない。

そして、上手に群れたつもりでも一人逸(はぐ)れている自分に気がつく。

慌てて群れに戻りまわりの真似をしてみる。

でも、もうそうすることに疲れ、嫌気が差し本来の自分に戻ると不思議なことに、

そういう仲間がいることに気付く。

人はみんな逸れもんなんじゃないか。

「和して同ぜず」という言葉がある。

「君は君、僕は僕、されど仲良し」と武者小路実篤が言った。

ありのままで生きても生きる場所はある。

 

 “スイミー”は、前回148まで載せて、何かが違う気がして全部おろしたモノの

一つでした。

 でも、新しく載せ始めてからやっぱり載せたくなって、再度載せました。

何かが違う、でもそれが何だか分からない。

 ある方の書き込みでその答えが分かりました。

 

寿玄夢さんの「スイミー」を読みました。その中で、
「「和して同ぜず」という言葉がある。
「君は君、僕は僕、されど仲良し」と武者小路実篤が言った。
ありのままで生きても生きる場所はある。」とあって、

同感だなあと思いました。

そして、実はこのことがスイミーのあり方と同じなのでは無いかと思うの

です。寿玄夢さんは、「スイミーは他の魚と色が違っていたんだよね。
だから、そのために仲間はずれになったり、群れから追い出されたりしたんだ。」

と書いていらっしゃいましたが、

実際の「スイミー」という絵本の中にはそのような描写はなく、

スイミーはみんなと違うけれど楽しくすごしているということが描写されて

います。みんなと違うことがいけないことではなく、特別なことでもない・・。

結末で「目」になったのも、指導者とか統率者とかいうことでなく、単に

それが役割としてぴったりだったからだと思います。

ちなみに、作者のリオニーもスイミーの主題について

「仲間の魚に代わってものを見る。それが、スイミーの役割です。

目になったからといって別に偉くなったわけではありません。」とある雑誌の

インタビューで話しています。

 

 実は、スイミーの話はうろ覚えでした。

これを読んで、何かが違う気がしていたことに納得がいきスッキリしました。

 私は面倒くさがりやというか、五千冊以上ある本の何処に私が書こうとしていること

の資料があるか見つからないことが多々あり、記憶のままに書くことが多く、記憶違い

があるのではないかと心配です。

 画竜点睛を欠くべからずの大事な所の意味が違っている。と憤っている自分が、大事な

部分が書けていなかったみたいで、 でも、分かって良かった。

リオニーの言ったスイミーの主題。  凄くいい! アリガトウ。