スナック「狸穴」

 その日、麻子はいきつけのスナック「狸穴」へ一人で出かけていった。

このところ、狸穴という名前が気に入って足繁く通っていた。

麻子は子供のころあだ名がいろいろあったが、さる、かっぱ、女男のほかに‘きつね‘

というのもあって「狐狸庵」などと聞くと懐かしい親しい感じがして 遠藤周作も

大好きだったりする。

狸穴がマミアナと読むことを、ここで初めて知った。

 マスターのヒロちゃんは女大好きをモットーとしていて、オカマではないが、女言葉

を使いやさしくて居心地が良かった。

薄暗い店内にあるカウンターの右端が、麻子の座る定位置だった。

入り口に近いその席は、店内の客に背を向け誰とも顔を合わせずにすんだ。

 ドアを開けると、まだ八時を少しまわった位の時刻で客は一人も居なかった。

いつもの席に座ると

「よかった、アサちゃんが来るように念を送ってたの、わかった?

カウンターに腰を下ろすのを待ってヒロちゃんが言った。

「ううん 全然感じなかった。」

「いや わかったはずよ、だから来たんだから、もう今夜はかえさないから。」

「だめだよ 今日は間違って来ちゃった、すぐ帰らなくっちゃ」

「いやん ほんとにゆっくりしてってよ、

アサちゃんが来るとお客さんが入りだすんだから 助けてよ」

「あたしは客寄せパンダか! それに誰にもそう言ってんでしょ!」

「アサちゃんが来るとホントにお客さんが入るの! それは、アサちゃんが一番知ってる

でしょうよ」

「あたしが来なくても いつもお客さん入ってんじゃないの」

「チガーよ、アサちゃんが来るとホントに大入り満員になるんだってばー 

アサちゃん知ってるでしょうよー」

ヒロちゃんがムキになり出したようなので

「はい、はい、わかりました」と言って 

目の前に出された自分の名前が書かれたボトルで濃い目の水割りを作った。

 麻子は、酒にはこだわりがあって 

その日の気分で氷の量やアルコールの分量を決めるのだが、その日によってそれは違う。

そして、呑んだ時間によっても変わっていく。

それは自分の納得がいくものでないと嫌なのだ。

 麻子の友達は皆それを知っているから麻子の酒には手を出してこない。

 そして麻子は人の世話をしたくない、人の面倒を見るのは本当に面倒臭いと思う。

みんな自分のことは自分でやって、人のところまで手出し口出しせずに良い距離感を

持ってつるまず、独占しようとせず、仲良く出来たらいいなあと思っている。

麻子は(和して同ぜず)とか(付和雷同せず)(君は君、僕は僕されど仲良し)といった

格言が好きだ。

 カラン カランと氷を回し オンザロックに近い水割りを歯茎に沁みこませ、

喉の奥で一旦とめてから胃袋に流し込んでやる。

それから口の中で香り立つアルコールを肺に入れる。

すると、「あー うまいなあー」と思わず口から出る。

「アサちゃんって、本当に酒が好きだよね。」

「うん、好きだなあ。」

「それでもって、親父臭いよね。」

「えー なんで?

「自分のやりたいことの為にはなりふり構わないって感じかなあ、

ほらお酒の飲み方とかさ」

「何言ってんのよ、こんなに美しくて女らしいのに」

「うーん、きれいなのは認めるけどさ 女っていうよりオカマってかんじ。」

「やっぱりー、あたしもそういう気がすんのよねえ」

「そういう返し方がオカマっぽいんだよね。

アサちゃんがアタシとか女言葉使うとなんかわざとらしいし。」

「じゃあ、ざけんじゃねえぞとか言えばいいわけ?

「それは、お下品!」

「じゃあ、どうしろってんだよ」

麻子は止まり木に浅く腰掛けて足を組み、左手にグラスを持ち右手で頬杖をついていた。

その時、バタンと音がして、客が入ってきた。

その客はもうすでに酔っているようだった。

酔っていなければそんな真似はしなかっただろう。

麻子の後ろを通りすがりに麻子の右の乳を掴んだのだ。

その瞬間、麻子はキレタ、重い椅子を蹴立てて振り返り立ち上がった。

「なんだこのやろー!ふざけんじゃねえぞ!」と言ったその手はボトルを握っていた。

そこにはチンピラ風の薄汚い男が立っていた。

「てめえ なんのつもりしてやがんだ、ただじゃおかねえぞ!」と麻子は言いながら

髪が逆立つ程腹が立っていた。 

男は驚いたように後ずさりして外へ出ていった。

麻子は身体に触られることが極端に駄目なのだ。

満員電車に乗ると、もしチカンでも出てきてみろ!

手をひねり上げてぶん殴ってやるから来るならきてみやがれ!と殺気立って乗っているの

だが、幸いなことに一度も遭遇していない。

麻子は握力が40以上あることが自慢でボクシングのまねごとをする。

チカンに会わない麻子も幸いだろうが、麻子に手を出さないチカンも幸いである。

ボクシングはジムに通っている訳でなく自己流でシャドウをしている。

いざとなったら負けない自信がある。

なぜなら、本当にいざとなったら捨て身の覚悟があるからだ。

ただし、いざという時は滅多に来ない、一生来ない方が幸せだと麻子は思っている。

しかし、何時何が来るか分からなくても、来なくても覚悟だけは持っていたいのだ。

 その時の麻子は、アドレナリンが出まくっていた。

「あのやろー」と鼻息荒く言う麻子に

「アサちゃん、急いで帰って」とヒロちゃんが言った。

「なんでよ!

「だって、あいつこの辺のチンピラで酒癖悪いので有名なやつで、

戻ってきたらなにされるか分かんないから 帰って!」

「なに? 店で暴れられたら嫌だってか!?」

「違うよ ああいうやつって馬鹿だから、何しでかすか分かんないから、

アサちゃんに何かあったら僕どうしたらいいか分かんないから、お願いだから帰って!」

いかにもケンカの弱そうなマスターに手を合わされると、

ここで迷惑を掛けるわけにはいかない気がした。

麻子は、立ったままグラスに残っているウイスキーを飲み干すと、

上着を肩に引っ掛けて外へ出た。

「ごめんね ごめんね」と謝るマスターに背を向けて

「今夜の狸穴はボウズだな」と麻子は思った。