ストレート

 

 僕は一つ思い続けている事がある。

それは何でもまっすぐにストレートに伝えるべきだという事である。

その事は、受け取り手の力量によって危険な場合があることは百も承知で、

それでもそうあるべきだと思っている。

 誰かに何か言いたいことがある。伝えたいことがある。

それを遠回しに知らせようとしたり、自分の口から伝えず第三者の口から言わせ

て伝えようとする事によって、話は曲解されこじれていく。

そして、伝えたい事が全く違ったものになってしまったりするのだ。

 僕は子どもの頃、いや、今現在もADHDであると思う。

非常に飽きっぽい。自分が面白いと思った事には後先も省みずとびつく。

興味を持ったとたんにその事に対して一直線でまわりが見えなくなる。

一般常識がないというのか、普通ということがどういうことなのか、

よくわからないのだ。

 

 あれは確か、小学校3年生の時だった。

図工の時間があった。

午前4時間授業の3時間目だったと記憶している。

何でも好きなものを描いていいと先生がいった。

絵を描くことが本を読むことと同様に3度の飯より好きだった自分にとって、

飛び上がる程の嬉しいテーマだった。

あまり嬉しすぎて何を描いていいのか思いつかない。

僕にとって好きなものを描くという事は勿体ない“ハハー、ありがたき幸せ”で

あり、いいかげんなところで妥協する気にはなれなかった。

 一時限の大半は何を描くかを思案する事に費やした。

そしてそれが思いついた頃には、もうその授業の時間は殆どなくなっていたのだ。

しかし、僕は描き始めた。描き始めたら止められない。

休み時間になっても描き、次の授業が始まっても止めなかった。

それは止めなかったのか、止められなかったのかよく覚えていない。

そんな事をしていたら先生に怒られる事ぐらい僕は解っていた筈だ。

それでなくても、家でも学校でも、あきれられる行動をしては、叱られ、怒られ

その毎に今度こそ、これからはちゃんとやろうと心に固く誓い続けていたのだ

から…。

 しかしその時、どうしても絵を描くことを、止められなかったのだ。

そして先生はそれを黙認した。いや、黙殺した。

 4時間目が終わり、給食の時間になっても私は描いていた。

その後、どうやってそれを終了させたかは覚えていない。

ただその時、先生はその事について僕には何も言ってはこなかった。

 その日、家に戻ると母は泣きながら「お前は又やったね。」と僕を折檻した。

「お前はなぜ普通の子と同じ事が出来ないのか!

普通の当たり前の事を当たり前にすればいいんだよ!

何でたったそれだけのことができないんだ!?」

 何を考えているのか、お前の頭の中がどうなっているのか見てやろうと

母は風呂の木を切る薪割りを持ってきた。

泣きながら怒る母に僕は恐怖しながらも申し訳なくて

泣く母が哀れで消えてなくなりたかった。

あれは僕にとって大事な事だった、と今思える。

親不孝で母のプライドを傷つけ続けてきた。

母が傷つく事で、僕も自分を否定し続けて生きてきた。

 しかし、先生は親に知らせる前に僕に伝えるべきであったと思う。

先生が、駄目だと思ったなら先生が直接僕に注意すべきだと思う。

今もそう思っている。

幼い子どもが怪我をする。

お前がよく面倒を見ていないからだとその場に居なかった夫や親が言う。

友人の妻などは「蚊にさされたのまで私の責任なんですよ」と言い、

彼女のそばから子供を離そうとしない。

子どもがテーブルの上に手をだそうとしただけで、

何もしていないのに彼女はその手を押さえ、さえぎる仕草をする。

 誰も誰かを手先に使ってはならない。

 誰も誰かの手先になってはならない。

伝えたい事は自分の口からまっすぐ本人に伝える事だ。

その時に押さえつけや命令、おどし、泣き落としでなく、

“自分はこう思う、こう感じている。こうして欲しいと思っている。”

それだけでいいと思う。

そこから先どうするかは、その人の領域だ。

そこに「こうしないとこうなるから」とか「この方が得だから」

「お願いだから私の為にこうして」「みんながそうしているから」とか

「みんなが言っている」などのいいわけや計算でなく、自分がどう思っている

かを伝えたらいいと思う。

正直な気持ちはぶつけるのではなく、伝えていく。

そういう世の中になったらいいなぁと僕は思うのだ。

そうしたら腹の探り合いや、言葉の裏にあるもうひとつの言葉を読むなどという

作業をしないで、楽に生きていけるのになぁと思う。

その話を妻にしたら、「あなたは充分今のままでストレートに生きていますよ」

と言われた。

その言葉は、僕にはちょっと嬉しかった。