謝罪会見

 

 世界チャンピョン内藤との対戦で、亀田次男が反則をしたが、セコンドについていた

兄と父がその反則の指示を出していた。

 その声はマイクに拾われ、映像に残り、揺るがぬ証拠となった。

 

以前の世界タイトルマッチで、判定勝ちした長男。

どう見てもボクシングを知る者にとっては、納得のいかない判定結果だった。

 

 そして、今回の反則についての謝罪会見が行われることになった。

しかし、父親は出席せず不在。

 更に、謝罪会見に亀田家を代表して来た長男は、遅刻。

現場では、1時間以上前から取材陣が待機していた。

謝る場所に遅れてきたら、謝る権利もないということに気が付いていない長男。

謝らせてもらえる有り難さがあるということを、彼は分かっていない。

 

10月25日に予定されていた長男の試合は、対戦相手が決まらないということで中止

になった。

 しかし、実は南アフリカの選手が対戦相手として決まっていて、前座の選手も決まっ

ていて、チケットもすでに売り出されていた。

 にもかかわらず、長男が自信を失い出来ないと言い出し、対戦相手が決まらないという

ウソの発表をすることで中止になっていた。

 

「お詫びしたいです」と長男は言ったが、「お詫びします」だろう!?と、私は思う。

「反則の指示はあったのか?」の問いに

「言い訳しない」と繰り返すばかりで答えようとしない、答えになっていない父親と、

長男。

言い訳しないと言うだけで、潔く自分たちが何を言い、何をやったかを明白にしよう

としない二人。

この後に及んでも筋が通らず、通そうとしない、男らしくない、裸になれない、

正直でない亀田家の面々。

何があったのかを、自分の口から話すという一歩が出ない。出そうとしない。

覚悟が決まらず、潔くない。ウソと誤魔化しの延長戦上にある謝罪会見。

「もう辞めるんだからいいだろう」とそこに現れなかった父親は、辞める前にあった

自分の行いに対するケジメも謝罪もなく、逃げて終わりにしてしまうつもりなのか。

 頭を下げても謝るな、どんな手を使ってでも負けるな。が亀田家の家訓だと聞いた。

 

「反省しているから」と彼、長男は言ったが、反省と後悔を取り違えている気がした。

「あー、あんなことせんかったら良かった」という後悔を、彼らは反省と思っているん

じゃないだろうか。

 前回も書いたが、呑んでかかることと舐めてかかることを間違えているように、後悔と

反省の意味を玉石混交(ぎょくせきこんこう)しているんじゃないかと思う。

 彼の落ち込みは、武士道の美学から全く外れてしまったことには至っていない気がする。

いや、彼らの反省(後悔)と落ち込みは自己反省からのものでなく、生きる姿勢の鈍ら

(なまくら)に対する自己嫌悪もなく、せいぜい試合に負けたことや、周りに迷惑を掛

けたこと(それも気に入っている人にだけ)辺りに滞っているんじゃないだろうか。

「反省して1から出直すつもりやから」と言うが、遅れて来て、父親も、次男も姿を

現さず謝らないで、ケジメも付けずにいる現時点では、1にもなれないだろう。

 例え家族であっても、自分のケジメは自分で付けるのが筋じゃないのか。

 

亀田家の勝ち負けだけに拘り(こだわり)、勝てば何をやってもいいという考えは、

今の日本を象徴しているように思えてならない。

 父親は、子どもたちが小さい頃に空手を習わせていたが、周りの子に、

「ウチの子に勝たしたってくれ、自信もたしたってくれ」と頼んで回っていたという。

ウソの勝利にホンモノの自信がつく筈がない。

正々堂々としていない惨めさ、そのカッコ悪さに気が付いていない父親。

勝負は勝ち負け以前に、そこでの生き方、姿勢に本当の意味と価値があると私は思う。

 

 話はあちこちするが、長男が

「亀田家のせいでボクシング界のイメージを悪くしてしまって…」と言っていたが、

思い上がるな!と思う。

お前らは、亀田家のイメージを悪くしていたのであって、ボクシング界はボクシング界で

自分たちで落ちぶれてきている。腐ってきている。

マスコミが悪い、テレビが悪かった。

等々、色んな批判が飛び交っているが、それぞれが、それぞれの持ち場に帰って自分の

あり方を見直す時期がきたんだと思う。

 って、熱くなってる私もだ!(反省)

 

だけど熱くなるっていっても、そこで頭が真っ白になって何やったか覚えていないと

いう亀田はセコンドの資格があるのだろうか。セコンドは反則を止める立場じゃないのか。

「映像にも残ってるし」って?

じゃあ、残ってなかったらウソをつき通す気だったのか?

 

強くなるということは弱くなるでもある。と私は思う。

ここの場合、強いとはライセンスを持ち、金や知名度、発言権や実行力、その他の力、

権力を持つという意味に於いてのことで言っている。

親、大人、先生、雇用者、スポーツ、芸術…。

権力を持つ、発言権、決定権などを持った瞬間に、それをどう正しく行使するかと

いうことの、なんと難しいことか。

人間には、根本的に邪悪(じゃあく)な邪(よこし)まな心があるんじゃないかと

私は思う。

だから、先生や有名人と呼ばれる人が、自分の力を“自分の欲望”に流されず自分で

それを牛耳るということは、実は至難の業なのだということに、本人も周りの人も気が

付いて欲しい。

 そして、それに気付いたならば、自分と戦うのだ。

邪ま(よこしま)な気持ちや邪悪な気持ちと。

力を持つ者と持たない者がそこに居たら、力を持つ者は、持たない者に対して絶対に

自分の欲のために力を行使してはならない。

自分の好みや都合によってエコヒイキをしたり排除、差別、支配を行ってはならない。

嫌と言えない者に対して、自分の欲望での言動行為を、絶対に行ってはならない。

先生は、そこに居る者の身体に触れてはならない。

人の気持ちを手玉にとってはならない。

権力を持つ者は、「嫌ならいいんだよ」と言うことすら脅しになることがあるのだと

いうことを覚えていて欲しい。

 

力は、心を持った者がきちんと使えば救いとなるが、邪ま(よこしま)な気持ちを

持った者が使えば凶器になる。

 力を持った者は、その瞬間から常に自分との戦いが始まるのだ。

しかし、生きている者で力を持たないものは、誰一人存在しない。

誰もが、ホントウに安信の人になって欲しい。(“安信”参照)

筋を通して、潔く、自分の足で立って、自分で考え、自分の口で語る。

自分で決めて、自分の覚悟と責任の下で、自分が行う。

 

大事なことは、素直になること、真直ぐになること。

そして、「ホントウに、これでいいのだろうか?」という気持ちを忘れないこと。

 

聖なるものは、俗の中に潜んでいる。というが、

聖なるものの中に悪魔が棲んでいることもある。

 スポーツ、武士道に生きる者の中に卑怯者が居るように、聖職者といわれる者の中に

人の心を殺す者が居る。

神を語りながら、人を支配しようとする者も居る。

 

大事なのは、自分がどう生きていくか。それだけなんじゃないだろうか。