商売の神様

 その人と話していたら、何だか商売の神様を感じた。

色も感じたのだが、神社の柱のような色。朱色のような感じだった。

 

 彼女(登志子)は、ちょっとフックラした大地キワコ似、今年40歳になる。

人を惹き付ける力があり、本人もそれは自覚していて、そのことが嬉しく自慢であると

同時に人を喜ばせる努力を惜しまない。

 登志子が脂の乗った充実した時期にあることは、パワフルな話し方と艶のあるたっぷり

とした髪を見れば一目瞭然だ。

 一人息子が高校に入り、世の中でいう反抗期が始まったのだというが、彼女は洋服の

注文オーダーの仕事をしていて自分の世界を持ち、忙しい毎日を送っている。

その顧客は商売をしている人や水商売の人が殆どで、そういったエネルギッシュな人達

の希望をかなえ、それと同時に、客に手作りのお菓子を振る舞ったりしているという。

頭がよくユーモアのある彼女は、夜に客の店に呼び出されることもあり人生を謳歌して

いるという感じだ。

夫は親の会社をついでいるが、真面目な人で彼女の仕事を認めている。

ここまで聞くと、順風満帆、何の苦労もなく幸せを絵に描いたようだが、彼女の努力も

生半可ではない。

夜中2時3時まで縫い物の仕事をし、朝は夫や息子のために5時6時に起きて弁当を作り

日中も次々と打ち合わせや縫い物、家事をこなす。

登志子の友人が、

「あなたは良いわね、夫が何やっても許してくれて、あたしなんか、夜ちょっと出かけた

だけでも文句言われて大喧嘩になるのよ」と言うというが、

「毎日の食事も手抜き、掃除片付けも中途半端にして日中遊びまわっていて、夫の働きで

食べさせてもらって、それで、夜に遊びに出掛けたら文句も言われると思うわ」と彼女は

言った。

 

そんな登志子の話を聞いていたら、商売の神様を彼女に感じた。

それを、登志子に言うと

「ヤダー、ちょっと見て、これ鳥肌―」と腕を出して見せた。

以前、東京に行ったとき、サンシャインビルの下で突然声を掛けられたのだという。

その人は、新宿だか何だかの有名な占い師だと自分で言い、

「あなたには、商売の神様がついてる」と言ったのだという。

私は「へー」と感心して「何で分かるのかねえ」と言うと

「あなたは、何で分かるの?」と彼女が聞いてきた。

「何でなのか分からないんだけど、そんな気がするの」と私が言うと、

「見えるの?」と何時もの質問。

「見えないけど、そんな感じがする。

でも、そういうことは、後で思い出してみると夢で見たくらいにおぼろげながら

見えたような気がするの」と言うと

「凄いわねー」と彼女が言った。

「何、言ってんのよ。あなたにも勘があるでしょ!何かあるわよね」と言うと

「実は、…」と言って話し出したのが、この話だ。

 

登志子は東北の生まれだ。

恐山が程近い所にある。

 その辺は、今はどうか分からないが登志子が小さい頃、30年程前は、葬式があると

イタコをよんで、口寄せをしてもらう事が当たり前のようにあったのだという。

すると、亡くなった人しか知らないことをイタコが話したり、家族だけしか知らない筈の

ことを言ったりするのだという。

 葬式があると、その家族でなくても亡くした家族の声を聞きたい人が訪れ口寄せして

もらっていたという。

 イタコは顔見知りでなく、その部落のことを知らない人で、ましてやその部落の人も知

らないようなことを言い当て家族への言葉には納得するものがあったという。

 登志子が、小学校に上がる年に布団に入ると“金縛り”になるようになった。

金縛りになると何かが、右足を引っ張り身体が布団から出る程になった。

それは、何日も続き心配した親が、イタコの所へ連れて行った。

 すると、死んだ祖母が登志子可愛さのあまり連れて行きたがっているのだという。

確かに何年か前に死んだ祖母は、登志子を可愛がり相当の思い入れがあった。

「このままでは危ないから、これをあげるから、毎晩枕の下に入れて寝るように」と

折りたたんだ教本のようなものを貰ったという。

蛇腹に折られたそれには、彼女には訳の分からない文字のようなものや、お釈迦様か

観音様みたいな絵があったと彼女はいう。

 連れて行かれた所は、六角形の神社のような建物で色んな布や人形のようなものが

ぶら下がっていたと思うという。

それから、ピタリと金縛りはなくなった。

しかし、高校受験の頃にコタツで勉強をしてそのまま寝てしまうことが続くようになっ

てまた“金縛り”が始まった。

その時は、足元に3人の人が立って彼女を見下ろしているのが見えたという。

その頃、家族旅行で行った所が、火山で溶岩の下に村が沈み3人しか生き残らなかったと

いう話を聞いて、どんなに苦しかったろうと思ったから、それが記憶に残っていたのかも

しれないと彼女は言った。

 しかし、心配した親がイタコの所に連れて行くと、

「この子は、イタコの才能があるから修行させてみないか?」と言われたという。

親は、即座に断ったというが、私も彼女には勘のよさみたいなものを感じた。

それと大事な大切なことは、人を思いやる気持ちと、いろんなものに敬意を持っている

ということだ。

力を持っていても、そのことで思い上がったり、馬鹿にする気持ちを持つことは恐ろし

い気がする。

彼女は、その力を、人を喜ばせるために使っていると思う。

だから商売の神様がついているんだと思った。

 

 面白いなあと思う。

“七五三”で厄払いをするが、数えの七歳は、満の六歳だ。

昔、子供は、数えの六歳までは神様からの預かりものでちょっとしたことでも黄泉の国

に連れていかれてしまうと、七五三の祝いと厄払いをした。

彼女が、引っ張られたのが六歳であることには、何か意味がある気がした。

 私は、最近の子育てに危険を感じている。

子供は、自分の子であっても神様からの預かりものであるといった恐れ多い気持ちが、

大人にないから子供に対して失礼である。

なのに、子供を甘やかし、おだて、ただ与えることが良いことだと信じて疑わない大人

が、際限なく子供を思いあがらせるのだ。

 昔、今より子供の命は儚く脆かった。

そして、人間の思い上がりは神の逆鱗に触れると信じられていた。

 だから、家に世継ぎの男子を求めた時、求める程、浮かれて大喜びをしないようにした。

六歳になるまでは、女の子の格好をさせるところもあった。

子供を思う程に、そんなに執着していない風を装った。

 そして、節目に沿っての子育てがあった。

子供の面倒は、みる時期があり、手出しをしてはならない時期がきたことは行事や節目、

節句によって知った。

 それが、現代になっての子育ては、手放しで子供を甘やかし、褒め称え思い上がらせ

自分を律することを教えず、自立の時期になっても親(特に母親)は、子供の面倒を見る

ことを止めず、自分のモノであるかのように口出し手出して、支配しようとする。

物事は常に変化しているということを忘れ、総ての物事には時期があるということに

目を瞑っているかのようだ。

そして、大人になっても面倒をみてもらわなければ生きられない人間になる。

 

 昔、徳のある者は、形でモノをみることは恥ずかしいことだと知っていた。

しかし、現代は、形でしかモノを、物事を見ようとしなくなった。

子供を見れば、顔が可愛いとか、目が大きいなどと姿かたちにばかりに終始している。

可愛いと言われることが、誉められていると思い込んで育った人間は、可愛くなければ

自分の価値がないと思い込む。

いい子で、可愛く、愛されなければならないという思いは呪縛となって人を縛る。

見える世界だけで物事の良し悪しを決めることは、人間を行き詰まらせる。

行き詰まりは、自分地獄に陥り、周りのことに気がいかなくなる。

 

商売の神様の彼女に思ったのは、人を思いやる気持ちと楽しませようとする気持ちが強

いということだった。

でも、それを、食いものにされないように、自分が楽しみながら、人を楽しませて

疲れすぎないように、人を恨まず、ユーモアを忘れず、出し惜しみせず、擦り切れず、

人の話は聞いて、でも、それに振り回されず、自分の本当に信じることをやっていったら

それでオーケーだって気がした。

 でもそれって、誰にも当てはまるんだよね。

つまり、商売の神様は、誰にもつく可能性があるってことだね。

 

“おまけ”

 じゃあ、商売の神様がつかない人の特徴を教えよう。

やっかみが強い。疑心暗鬼。人の幸せが面白くない。自分が一番でないと面白くない。

すぐ拗ねる。人が怖い。人が嫌い。人を馬鹿にする。ウソツキ。偽善者。エコヒイキ。

秘密主義で弱いものを大事にしない。

ほら、猫を大事にする店は繁盛するっていうけど、得にならないことでも楽しめる人は

自然と商売に繋がるんだね。

 まあ、儲けるという字は信じる者と書くくらいで、自分の信じることをすれば自信が

出来て、信じる者がついてきて、人を信じられるようになるんだろうね。

 それが儲けに繋がるってことかな。

          じゃ、そんなとこで。