守護霊

 いい守護霊がつくためにはどうしたらいいか?と聞かれた。

私は守護霊なるものが居るのか居ないのか分からない。

 しかし、思うに守護霊を持つための行いこそが、いい守護霊がつくことから一番遠い

行いである気がする。

そこに、どうしたらモテルようになりますか?と聞いてくる人と同じものを感じる。

モテルことなど考えずに生きている人が魅力的でモテルように、守護霊などに囚われず

無欲に行う、無作為の行いによって守護霊はやってくるのだと私は思う。

ということは、守護霊がつく為という欲を持った作為は、守護霊の加護から程遠い所に

存在する行為であることになる。

 私の話は分かりづらいもっとヤサシク話してくれと言われるが、ヤサシク伝えようとし

て本来の主旨が違ってしまっていることが多い。

親鸞聖人の歎異抄などは、異なっていることを嘆いた抄(抜書き)なのだ。

 「画竜点睛(がりょうてんせい)を欠くべからず」という諺がある。

「画竜点睛」を最近の辞書で引くと、絵の名人(梁)が竜を描き最後に睛(ひとみ)を

入れたら、その竜がたちまち天に昇っていったという中国の故事から出たことばとある。

ひどいものになると最後の仕上げとあって、「画竜点睛を欠くべからず」とは最後の仕上げ

をしないと、ものにならないなどとあったりする。

それが、子供向けなどの辞書だったりするのだ。

物事の道理をヤサシク教えようとして主旨が、違ってしまっている。

その説明こそが、点睛を欠いているのだ。

それは誤解される話となり、一番大事な大切なことが伝わらなくなっている。

 

その諺となった話は、絵の名人が竜の絵を描くことを命じられ素晴しい竜を描くが、

最後の睛(ひとみ)を入れることを忘れる。

しかし、それに気付き点睛を入れると、竜が息づき天に昇っていったという中国の故事

から出来た諺である。

点睛とは辞書にはひとみとあるが、魂(たましい)のことだと私は思う。

「仏作って魂入れず」という言葉を聞いたことがあるだろう。

どんなに立派な仏の像、仏像を作ったとしても、そこに魂が入っていなければただの物体

なのだ。

魂を入れることを最後の仕上げと言っているのなら、そしてそのことが伝わっているのな

らいいのだが、単なる形を行うことでしか伝わっていないなら、事は重大だ。

現代の人たちは、形だけを求めてその魂を忘れている気がしてならない。

勿論、形も大事だ。気持ちは表さなければ伝わらない。

しかし、気持ちさえあれば何もしなくても良いというのは怠け者の詭弁(きべん)

いいわけだ。

見えるものは、見えないものによって現されているということを忘れてはならない。

その目には見えないけれど大事なものを、信じられなくなると不安になり形を求め始める。

愛しているなら何か頂戴というのは、不信と乞食の精神だ。

愛という見えないものに証拠を欲しがるのは、心が貧しくなって生きる自信を失っている

証拠だ。

見返りを求めての行為が、恥ずかしいことであるということすら分からない人が、

増え続けている。

 どうしたらいい守護霊がつくか。

守護霊を求めてなどの行為でなく、自分の信じるやりたいことを精一杯努力することだ。

評価や結果を気にせず、見返りを求めず、楽しんで思いっきり行うことだ。

人目を気にせず、しかし、人の気持ちを考えて、我欲を捨てて、我を忘れずに…。

 

 そして、どうして守護霊について欲しいのか?と問うたところ

「だって、困った時に守ってもらえるから」と言った。

あー、これが、違うと思うんだよなあ。と思う。

何故かといったら、守護霊はただ助けるだけのものではない。

深い意味でいえば、本当の意味でいったら、助け育ててくれるものではある。

が、守護霊は、自分に困難を与え育てるものだと思ったらいい。

まずいことをしても見逃し助けるものは、本当の守護霊ではない。

自分の生きたように答えは、返ってくる。

自力で頑張り精進し、頑張りつくした先に他力が現れると棟方志功は言った。

「自分がやっているのに、自分の中に(何か)がオリテくるんだよなあ」と。

守護霊は自分、自らの分心ではないかと私は思っている。

助けてもらいたいと何もせずに願う者には、それ同等のモノがつくであろう。

その人の生き方と精神のあり方に同等のモノが、やってくる。

それは、好むと好まざるとに関わらず、求めると求めざるに関わらず同じモノなのだ。

だから、何も心配しなくていいんだと思う。

自分を磨いて精神誠意、心を込めてやりたいことを出来るだけ楽しんで行えばいいのだ。

そこに来るべきモノは来る。