小さき者

 

 ボランティアを40年続けている“池間哲郎”という人が居る。

ボランティアの語源は、湧きあがる温泉とか火山から来ているという。

 彼は、ラオスで活動している。

ラオスの中でも貧しい村で、一日一食が普通だそうだ。

栄養状態が悪く設備のない所で、下痢をした風邪を引いた熱が出たなどで、あっとい

う間に子供は亡くなる。

彼は、山に水源を見つけそれを村まで引っ張ったり、診療所といっても掘立小屋で

暑くて患者が外に寝ているような状態だった建て物を快適に入院出来る診療所にしたり

して来た。

 それは、一から十まで“やってあげて”はだめなんだという。

機材やノウハウは、こちらから持ちこむけれどもそこに住む人達が、自分達の手で造る。

ということが、その事こそが大事なんだという。

最初は貧しく、忙しく、活路も希望も持てず何故自分たちがそんなことをしなければ

ならないんだと懐疑的だった男達。

 そこで、最初に動き始めたのがお母さんたちだったという。

子供を背負い、スコップを手に働き始めた。

そんなお母さんを見て、次に子供達が働きだした。人が動くと書いて働く。

そして、男達が動き出す。

「お母さんってスゴイですよね。お母さんが動くと社会って世の中が変わるんじゃない

ですか?」と、池間氏は言う。

 

 私は、ボランティアをしている人に嫌なものを感じることがある。

それは何かというと、何かをやって“あげて”いる。という部分。

相談に乗って“あげ”話を聞いて“あげて”いる。

そういった人は、話を聞いてあげていて、こちらにも聞いてあげなさい。と要求する。

 そして、時々居るのが物を“与える”のが自分の力であるかのように勘違いしている人。

と、言ってはみたものの、私にもそういった部分があります。すみません、気を付けます。

 で、大体が“与える”っちゃ、なんなんだよ!と思う。

布施って言葉があるが、お布施というとお寺に寄付して仏だか寺に助けて“もらう”べ。

的に思われてる気がする。

布施とは、有る所から必要としている所へ、水が高き所から低き所へ行くようなコト。

だと聞いた。

神仏の声が聞こえるという人が「私が教えて差し上げます」と言うのを聞いたことが

あるが、それを言うなら「聞こえた事を話します」じゃないかと思う。

 人は、神仏になったつもりになっちゃなんねえ。

その人は、分かったつもりになっているが、分からないことを忘れている。

無知とは、分からないことを忘れ、分かったつもりになっていることだ。という。

って、これ私のことです。

因みに、分からないことを分かっていないのが無知、

分からないことを分かるのが無知の知。

何でも分かったつもりの心は無明。というらしい。

 

 ボランティアのようなことをしている人のセリフ。

あなたも、やってあげなさい。頑張るのよ。そんなことじゃダメよ。大丈夫よ。

教えてあげなさい。それがあなたの御役目よ。可哀想に。

 何故か、決めつけ、押し付け、評価を下し、上から目線、共感でなく同情、命令。

一口で言って、エラソウ。

あー、気を付けべぇ。

 

 池間氏の話。よかった。そうそうって感じだった。

大学の学生がボランティアの手伝いをしたいと言ってきた時、違和感を覚えるという。

 学生は「困っている人を助けて“あげたい”」と言って来る。

「“こんな”自分“でも”出来るでしょうか」と言うらしい。

池間氏は、自分を否定している者は人にもリスペクト、敬意を持てない、先ずは自分に

敬意を持つことが、基本だ。と言う。

そして、何故か自分を否定していることにも、「困っている人」と決めつけ、助けて

「あげたい」という傲慢にも気が付いていない。と言う。

その学生達は、ラオスに暮らす人より優れている訳ではない。

ただ、日本という豊かな(経済的に)国に生まれ生活も教育も恵まれた環境に暮らして

いる。というに過ぎない。

 ただし、そこの人達が困って助けを必要としていることは事実。

助けたい、助けになりたい、手伝いたい、やらずにいられない。の、湧きあがる想い。

ボランケーノ、ボランティア。

幸せは、分けると増える。と彼は言う。

 必死で真剣に生きている人こそが、彼の師だという。

 

ドヤ街で無料の床屋をする牧師さん(名前を忘れた、後で書く)が居る。

私が師と思う人、想いを行う人。(なーんで、名前忘れるかな)

 彼は言う。

「神は、小さき者、弱きものの中にこそ居られる」と。

 

“泥の中の神様”という言葉を思い出した。

 

追加、名前、出て来ました。“本田哲郎”でした。

スゴイ、同じ哲郎さんだったぁ〜。