トイレ教育

  今年のトイレ教育第2弾が終了した。

 

 我が家の前は小学生の通学道路で、毎日多数の小学生が往来する。

学校から「子どもの緊急避難所」としての依頼を受けている。

新学期が始まると新一年生が、先輩に連れられて登校し、暫くの間、帰りはお母さんが

迎えにきて一緒に帰る。

 さて、それが済んで1年生だけで下校し始めると、

その1年生たちが「トイレ貸してください」と、やって来る。

自分で言う子もいるが、世話焼きの友達(主に女子)が言ってくることが多い。

そこで、「どうして自分の口で言わないの?」という話になる。

子「トイレ!」とだけ言う子も居る。

「トイレがどうしたんですか?」

子「トイレ、いきたいの」

「だから、何ですか?」と、そこまで言われて、

子「トイレ、貸して」と言う。

子「トイレ、何処!」と勝手に入って来る子も居る。

 

子ども達の様子を見ながら、集団下校で固まっている1年生を集める。

「どうして、こんなに毎日トイレを借りるんですか?」

子「学校でぇ、先生がぁ、ここでトイレを借りなさいって」

「トイレに行きたくて借りているんですか?」

すると、「うーん、そんなには」という子が居たりする。

「あのねえ、先生はトイレが我慢出来なかったら、

ここで借りていいよって言ったんだと思うよ。

学校から帰る前に、お家に着くまで大丈夫なように、トイレはしてきましょう」

子「してるよー」「やってる」という声があがる。

「でも、こんなに毎日トイレを借りる人がいるのは、気をつけていないからだと思います。

学校に入っての勉強は、机に座っての勉強だけじゃないんだよ。

帰る前には、トイレをして、帰り道でウンコやオシッコで困らないようにするのも勉強」

子「きゃー、ウンコ、オシッコ、ハハハ!」とみんな喜ぶ。

「あれー、ウンコやオシッコはおかしいことかな?」

子「うん、学校でウンコするとイジメに会うってお兄ちゃんが言ってた」

「へー、じゃあ、人間は、人間だけじゃなく生きものは皆ウンコだのオシッコするけど、

それっておかしいの?ダメなことなのかな?」

子「チガウヨー」などと声があがり、その時によって色んな意見が出る。

 

「それに、トイレに行きたい人が、自分で言わないで他の人に言ってもらってるのは

どうかな?」

子「おかし−」「うんそう、おかしい」

「じゃあ、どうしたらいい?」

子「自分で言う」

「そっかー、自分で言うか、でも、すっごい恥ずかしがりやで言えない人だったら?」

子「そん時は、言ってあげるー」

「なるほどねえ」などと、話が広がっていく。

 

トイレは帰り道でしなくていいように、学校でしてくる。

どうしても、我慢出来ない時は、自分で言って借りる。

トイレは恥ずかしい事ではない。

学校でも使う。(最近、学校でトイレの使えない子が増えているらしく、排泄を我慢して

具合の悪くなる子が居るという)

でも、授業や何かの前にはトイレを済ませるクセをつける。

 

トイレを借りることは、恥ずかしいことではない。

恥ずかしいのは、「貸してください」と自分の口で言えない、言わないこと。

借りた後で「ありがとう」とお礼を言えない、言わないこと。

トイレを汚してコソコソ逃げること。

 と、言うと「ワー、ハハハ」と皆喜ぶ。

 

ここに、私の奥の手がある。これは、滅多に話さない奥の手だ。

「オバサンはね、小学2年生の時、ウンコをもらしたんだよ」と言うと、

「えー?!」と必ず、子どもたちの関心は高まる。

「オバサンは、鼻紙もハンカチも忘れる、“忘れん坊の王様”だったんだ。

その頃、忘れ物表ってのがあって、1つ忘れ物をすると1つシールを付けるんだけど、

あんまり忘れ物が多いもんだから、オバサンだけ表を付け足してシールが貼られるくらい

の“チョーウ忘れん坊”だったの。

 その日もハンカチもちり紙、要するにテッシュね。持っていなかった。

そんでもって、面倒臭くて休み時間にトイレに行かなかった。

オバサンは、物凄―い、面倒臭がりやなのね。

 授業が始まると、何だかお腹を降りてくるモノがある。

(こいつは困った、でも、何とか我慢できるだろう。ちり紙もないからお尻もふけないし)

その頃は、トイレに紙は置いてなかったんだよ。

昔は、自分の使うモノは自分で用意するのが当たり前だったんだよ。

 でもって、オバサンはプライドばかり高い格好つけの子どもだったの。

休み時間にトイレに行くという準備をしないくせに、授業中に

「先生、トイレに行きたいです。行かせて下さい」って言うのはカッコ悪くてどうしても

言えなかったの。

我慢して我慢して、どーしても我慢出来なくなって、ようやく先生に言って

こんな格好でトイレにたどり着いて、トイレの取っ手に手を掛けたら」

ここで、身振り手振りをやめ、間を置く。

「ニョロリ、太い長い立派なウンコが、パンツを下ろす勢いで出てしまったの」

間、

「はー(ため息)、もうオバサンどうしていいか分からなくて、オバサン小さい頃から

プライド高かったって言ったでしょう。

もう、この世から消えてなくなりたいって思った」

「でも、勇気を振り絞って、そう、あれは勇気だったと思う。

教室に戻って先生にウンコ漏らしたって言ったの」

「先生がパンツ洗って、袋に入れてくれて、お友達のブルマーを借りて穿かせてくれたの。

オバサンのお母さんが、それを洗ってお漏らしした人が穿いたと思ったら気持ち悪いだろ

うってブルマーにアイロン掛けて、お礼を言って、返してくれたんだ」

この話で、ウンコを漏らしたところで笑う子は殆どいない。

自分の身になって考え、感じるということの感性が失われていないんだと、その時感じる。

 

「でも、オバサンあの時ウンコ漏らして良かったって思っているんだよ。

オバサンウンコ漏らした人のこと恥ずかしい人だって思っていたんだけど、

そういう人を笑う人、人を馬鹿にする人の方が恥ずかしいんだって事が、分かったから」

 

「恥ずかしいってどういうことかな?」って話も面白い。

汚い格好をしてると恥ずかしいと言う子が多い。

そこを掘り下げていくと、汚いの反対の綺麗という定義がブランド物や流行物、高いもの

という考えに至る。

「じゃあ、お父さんとお母さんが、働いて買ってくれたものが、そういう物でなければ

いけないの?」

じっくり話すと、必ず伝わるモノを感じる。

着るものも持ち物も心も清潔であることが大切で、流行の物でないものを持っている子

を馬鹿にしたり、からかうことこそが、恥ずかしいことだと分かってくる。

 清潔でないことも、自分で清潔にしようと努力しないことは恥ずかしいが、そう出来な

い事情のあることもある。

 いろんな人の事情に思いを馳せることを教えると、思いのほか子どもは素直に理解でき

るもんだと私は思っている。

 

ウンコは“便”と漢字で書くが、これは身体からの自分からのお便りなんだよ。

身体の元気と、食べ物の元気、心の元気も“便”、ウンコで知らされてるんだよ。

毎日、いいお便りがあるかい?

ちゃんと、お便りは、読んでるかい?

 

5月のトイレ教育が終わって、トイレを借りないで帰れるようになった子どもたちが、

夏休みがあったら、ちょっと忘れてしまったようで、トイレ教育第二弾をした。

何となく20年位前から、その機会に恵まれたらやってる、私の趣味だ。