鶏の空揚げ

 僕が子供の頃、一番の好物は、鶏の空揚げだった。

1954年生まれの僕が子供だった頃、カレーライスには肉の代わりにソーセージが

入っているような時代だった。その頃に、鶏の空揚げは高級品だった。

 母は負けん気が強く、何をやっても手早できちんとしていた。

僕の着る物は殆どが母の手作りで、料理も上手だった。

僕が小学校にあがった頃は、まだ専業主婦だった母は、付きっきりで僕の面倒をみた。

夏休みの作品は、母が作ってしまった。

僕が宿題で持ち帰った絵にも手を出してきて参った覚えがある。

 

 その日、母と二人でОの町に出掛けた。

勿論母の手作りの服を着せられて、僕は買い物に付き合わされた。

その帰り道、木崎の坂の途中に夏は“カキ氷屋”で、冬になると“たい焼き屋”になる

家があった。

買い物をして機嫌の良い母は、そこに寄って何か一つ食べさせてくれるのが常だった。

冬の寒い日は、土間である家のお勝手に縁台が置かれていて、そこに腰掛けて熱々の

たい焼きを食べる。お茶も必ずサービスで出てきた。

夏、冷房などなかった時代にその縁台は、坂道に面した道路に置かれる。

カキ氷をシャプシャプいわせながら道行く人を眺め、風に吹かれたりすると僕は極楽を

感じたものだ。

 しかし、その日の僕は疲れていた。早く家に帰りたかった。

なのに、その日の母とオバちゃんの話は長かった。

オバちゃんは、ヤケにお母ちゃんのことを誉めた。

僕の着ている物が、母のお手製だと知ると手先が器用だ。から始まって何時も身奇麗に

している。この辺の人とは一ランク違う、何をやっても上手でソツがない。などと褒め

たたえたのだ。

そして、僕の方を向いて

「勇蔵ちゃんは、こんなお母ちゃんでしあわせだな。きっと料理も上手なんだっぺな。

勇ちゃんは、何が好きなんだ?」と聞いてきたのだ。

その時、僕は「醤油かけメシ!」と言った。

オバちゃんは、お母ちゃんの顔を見た。

お母ちゃんの顔は、みるみる赤くなった。

店から出て間もなく、僕はゴクズリとゲンコで殴られた。ゴツンではないゴツン、ズリン

だ。

「お母ちゃんが何時、醤油かけメシを食わせたことがあんだ!

おめえには何時だってちゃんとしたモンを作って食わせてべ!

何でおめえは、お母ちゃんに恥かかせるようなこと言うんだ!」

 

その時のことを今でも覚えている。

誉められて有頂天になって得意そうな顔をした母、その母に感じたあの思いを…。

それまでは、母に怒られ叩かれると、痛くなくても拒否されたという絶望感と悲しみで

胸がいっぱいになり、嗚咽が止められれず涙が止まらなくなったが、その時はゲンコツの

痛みが、心地よくさえあった。

 

本当は、鶏の空揚げが大好物だった。

それは、現在の唐揚げとは違って塩コショウだけで殆ど衣を付けない空揚げで、鶏も

香り高かった。

母は、僕が喜ぶと我がことのようにというより、我が事として喜んだ。

鶏の空揚げを作ると、自分の分まで僕に食わせてくれた。

そして、僕は、あまりモノを欲しがらない子供だった。それは今も変わっていない。

しかし、それが本に関してだけは違った。

本が欲しいなると我慢がきかず、それを僕が言い出すと、母は何としてもそれを手に入れ

てくれた。

小学校の図書室の本を殆ど読んでしまって子供向きの「世界の名作文学全集」という

ものがあると知ったのは4年生の時だった。

父の働きの一日分位の値段であったその本を毎月何冊ずつか買い揃え、50巻全部集め

てくれた。それは僕の宝ものになった。

それはモノとしての宝だけでなく、間違いなく今の僕を作る基礎になっている。

 

 僕は寺山修司に何か感じるのだが、彼の作品は殆ど読んでいない。

彼の本は何冊も買ってあるが、どうも読む気になれずに本棚に置かれてある。

本好きの僕にして珍しいことだ。

でも時々興味があるのに読めずに置かれたままの本というのがある。

そういうものは、きっと僕と出会うその時期ではないのだろうと思う。

必要な出逢うべきものは焦らなくても、必ず手元にやってきて出逢えるというのが、

僕の持論だ。

しかし、だからといって無欲の努力を惜しんだり、求める心を失ってはならないと思う。

先日NHKの「知るを楽しむ、私のこだわり人物伝」で寺山修司を放映していた。

それを見て僕は唖然とし、思った。自分と母の関係にあまりにも似ている、と…。

 僕の本棚に並ぶ全集の第一巻が、抜けている。

僕は本を読み出すと周りの音が聞こえなくなる。

小学生の時、休み時間に本を読んでいて授業が始まる鐘の音が聞こえず教室に戻らず

何度叱られてきたかわからない。

そして、母は何でも僕に話した。話す。僕の都合は考えずに一方的に話してくる。

本を読むことの一つには、僕の思考になだれ込むものを拒否するための防波堤としての

役割を果たしてきた。

母の話すことは、僕にとって必要なことと、全く意味をなさないことが混同していた。

 

その時、母が話している横で、僕は本に夢中になっていた。

そして何時ものように、自分を振り向かない僕に癇癪を起こした母は大事な高価な本を

破ったのだ。

それが、第一巻だった。

以前にギリシャ神話と日本古事記の類似性についてまとめたいと思ったことがあり、

確か名作全集にあったと思い、探したことがあった。

日本古事記はすぐに見つかったが、ギリシャ神話はどうしても見つからず、その時思い出

したのだ。

母に返事をしない、母を振り向かない僕に焦れ、怒(いか)って本を破きその足で踏み

にじったその時のことを…。

僕は、母にとって決して自由になることのない所有物だったのだ。

そのクセ大事な宝物だった。

手作りの服、手作りの食事、過干渉。

母は、毎日、家の外であったことを根掘り葉掘り聞いた。

僕はそれに正直に答えた。

いや聞かれる前に総て話した。それは懺悔(ざんげ)のようであった。

そして、話す度にどんなに怒られることになっても話してしまった事で、僕はいつも

スッキリしていた。

話すは、別に放つという意味も持っていると聞いたときに僕はえらく納得したものだ。

僕はいつも自分の思いを、後悔を手放して自由になっていたのだ。

母は、僕が話し出した時に、その話を聞かなかったことは、一度としてなかった。

 街の本屋から取り寄せられた名作文学全集は、第一巻から順番には届かなかった。

だから、ギリシャ神話が、いつ頃に届いたか分からない。

それに、あの本は幾度となく読み返したから、あの“本破き踏みにじり事件”が

何時にあったのかが、ハッキリしない。

 母は、僕を自分だけのモノだということを証明するために、僕の秘密を他人にバラシタ。

自分のモノとしてこき下ろし、貶(けな)してみせた。

それでいて、ナニモノにも変えがたい宝物だから自慢したくてたまらないのだ。

その時々によって変化する母の気持ち。

それに振り回されないためには、僕は自分の世界を作ることが必要不可欠であった。

それは、山に入って物思いに耽(ふけ)る。空想に耽る。読書に耽る。ということに

なった。

耽るとは夢中になるという意味で、耽る秋もこの字だ。

 

 三輪明宏が、寺山修司とその母についての思い出を語っていた。

寺山は、1歳のときに父を亡くし母の手一つで育てられた。

エキセントリックに狂おしいまでに修司を愛し執着する母親から、逃れようとしながら、

寺山修司が作られていくのだ。

 母親の反対にあいながら結婚した二人のアパートの窓ガラスに、毎晩のようにコツン

コツンと小石をぶつける寺山の母親。

 ある時は、開け放した窓から、修司が子供の時に着ていた着物に火を点けて投げ入れた

という。

 本好きな修司の為、生活が大変な中、少年倶楽部などを買い与え、修司の喜ぶ顔を見る

母の顔は修司以上に嬉しそうだったという。

しかし、修司が本に夢中になって返事をしないと母は、その本を引き裂いたのだという。

 修司は離婚して、また母と住むようになる。

修司が戻ると言った時間に家に帰らないと、部屋が真っ黒になるまで何時間でも焼肉を

焼いて待っていたという母。

 修司が47歳で亡くなった後、母親がインタビューされている映像が出た。

「寺山さんがお亡くなりになって」と話し出すインタビューアーを遮って母親は言った。

「あの子は死んでなんかいませんよ!

まだあたしの傍にいるんですよ、ただ見えないだけなんですよ!」

その口調の激しさに質問することも忘れてインタビューアーは黙った。

 美輪が、その母親に会った時に、「まだ生きてたんですか?」と言ったことがあるという。

すると「ええ、私はあの子に何度も殺されてますから」と母は言った。

 僕が、高校に入る頃だった、カルメン・マキの「時には母のない子のように」という

歌が流行った。

僕は、その歌に惹かれながら大嫌いだった。

その歌詞は、寺山修司が書いていたことを初めて知った。

 

 僕が、先生や大人からよく言われたのが

「あんなにお母さんから大事にされてお前は幸せだ。お前みたいに幸せな者はいない。

親孝行しなきゃ駄目だぞ」だった。

両親に大切に育てられたということは、自分が一番知っている。

そして、自分程親孝行な子供はいないと僕は思っている。

心配を掛ける子供は、親を長生きさせるというじゃないか。

しかし、心配というのは親が勝手にするものだということも、自分が親になって初めて

知った。

親に育てられる重責と感謝は、当人でなければ分からない。

それは、僕だけでなく、誰もが縁(えにし)によって縛られ、半殺しにされながら

生かされ助けられ、親だけでない何者かによって育てられているんだと思う。

 

 僕は、親の考えや生き方が、僕の理想と違うことに腹を立てていた時期が、長くあった。

それが、ストンと納まりが付いたのは、

「あー、親はカミサマじゃないんだ。

神というか、解脱に向かって必死で生きて進んでいる、同じ時を生きる同士なんだ」と

思ったことが、きっかけだった。

 こんなことを言うと、何か宗教に入っているんですか?と言われるが、特別にはない。

自分が想う様でなく、苦しくて七転八倒している時に、

「あー親もそうだったんだ」とふと思い、愛しい気持ちになった。

或る思想家の言葉を思い出した。

「夜の中を歩き通す時に、助けになるものは、橋でも翼でもない、友の足音だ」

 

 最近、両親が近くに越してきた。

老後は自分が面倒見ようと思っていたので、スープの冷めない距離に居るということは

僕の生活を脅かすこともなく、そして何時でも駆けつけることが出来るという安心感で

僕も両親も落ち着いた気がしている。

 料理が得意な母は、毎日のように何かを作って呉れる。

先日は、山菜赤飯が届けられた。

 それは、上手に出来ていて美味かった。

翌日、手伝うことがあって親の家に行った。

手伝いが済んだ頃に、昼になった。

新築でスッキリとした家は、居心地が良かった。

「昼飯を食べていけ」と母が言った。

「そうだな」と、僕は両親と一緒にテーブルに座った。

前日に家に届けられた山菜赤飯が皿の盛られ、電子レンジで温められて出てきた。

僕の家に届けられた山菜赤飯は、具沢山でふっくらとキレイだった。

母の家で出てきた山菜赤飯は、白と茶色の段々まだらにおひつの底で固まった具の少ない

ものだった。

 昔からそうなんだ。何時だって一番いいところを僕に食わせて、自分は端っこばかり

食べるんだ。と思うと胸が熱くなった。

 僕が食べ始めると、立ったり座ったりしていた母も父の隣に座った。

そして、

「うぢのは、底の方だがら少し固まってべ。んだが味は変わりねえべ?」

と言いながら自分の使った箸で赤飯の固まり、段々まだらをほぐし始めた。

それを見た僕は、急に食欲がなくなった。

昔っからそうなんだよなあ。

 そして、自分は親不孝なんじゃないかと思ってしまうんだ。