運命

 

 占い師として最高峰に存在していると噂される男がいる。

彼は若かりし頃、自分を占ってもらったことがあったという。

ところが、総ての占いにことごとく悪い結果が出た。

そこで絶望的になった彼はどうしたら運命を良いものに変えることが出来るか、

それから猛勉強をした。

そして、見つけ出したのが今の占いだった。

 

占いを好む人と、嫌う人がいる。

嫌う人は、自分の運命を決め付けられるのが嫌だという。

しかし彼は運命を好転させる方法を占いで考える。

現在の状況を見極めた上で、一見関係のなさそうな物の置き場所を変えたり、釘を打ち

込んだり、家から出る方角を一旦吉方向から出発するなど様々な方法をとる。

その人が困っていることとは一見関係がなさそうに見える事を行うのだが、それを

行うとその人の心意気が変わったことを感じた。

落ち着きがなく動物的だった人が、人間らしい表情と行動になり地に足が着いた感じ

に見えた。

本来の占いは、運命を決め付けるものではなく、これからの人生をどう生きていったら

いいかを見つけ出す手がかりなのではないだろうか。

 

 また、K氏は、宣伝もせずテレビにも出ないが、知る人ぞ知るサイキックカウンセラ

ーだという、その彼が言う。

「人には、宿命と運命があります。

命に宿る宿命は変えられませんが、命を運ぶ運命は自分の生き方で変えられます。

そして運命を変えることで、結果的に宿命さえも変わっていくのです。

それは、どうするかというと自らのカルマを知り、それを克服する事によって悪いカルマ

が解消され良いカルマに変わっていくのです。

良いカルマを作っていけばいいのです。それが、輪廻転生の目的ですから。

私は、今生、運命は変えられるということを実証する為に生まれてきたと思っています」

 

人は、肉体と心と魂で生きているが、

自分で分かっている肉体と心だけで生きていると思っている人が殆どなのかもしれない。

魂の部分は、ユングのいう高次宇宙意識、普遍的無意識のことだと私は思う。

人は自らの中に神を持っている。

その神と対話出来るようになる為には、自我を越えなければならない。

我欲を我(が)を捨てることだ。しかし、我(われ)を忘れてはならない。

 

 気が付けば何時の間にか私は、人の孵化の手伝いをしていることがある。

それは、最初のきっかけには関わることになるが、行うのは本人にしか出来ない。

卵から雛が孵る時、内側からしか破れないにように人生の壁は当の本人が破るしかない。

私でも誰でも、いくら歯痒くても助けたくても、手出しは出来ない。

例えそれは出来たとしても、絶対にしてはならない。

声が届かず卵の中で眠ったまま死んでしまうこともあるが、無理やり引っ張り堕そうと

すると殺してしまうことになる。

 

カルマは人が成長する為にあるのだ。と私は思っている。

そして「誰もカルマを持って生まれてきているんだと思う」と言うと、怒り出す人がいる。

また、そのカルマを認めると自己批判を始めてしまう人が居る。

「あなたは、神のつもりか!」と怒る人もいるが、

私もまた自分のカルマを背負い生まれてきた一人であると思い、カルマのない人間は、

この世に生まれてこないのではないかと思っている。

 私は、今まで「どうしてこんなに苦しい目に合わねばならないのだろう?」と、何度

思ってきただろう。

それが、いつの頃からだろう?

よく考えてみると子供時代の苦しい時、殆どは

「苦しい、辛い、もう嫌だ、助けて」という気持ちだったが、

時々、稀にふと「これってどうしようもないことなんだな」と思うようになった。

「あー、これをやることに決まっていたんだ」と思ったことがあった。

そして、2001年のスイッチオンの後、

「あー、これをする為に生まれて生きてきたんだ」と実感することに次々と出会うことと

なった。

その前にもそれはあったのだろうが、気付かずに過ぎてきたのかもしれない。

 

 今ある運命は、与えられたままに受け止め、受け入れるしかない。

それは、覚悟を決めて、受け入れたら楽になる。

 しかし、そこからどう考え、どう選択し、どう生きていくかは自分で決めて行うのだ。

それを、「自分でしなければならない、負担である」と考えるか、

「自分で考えて決めて自分の思うように行うことが出来る」と喜びと感じるかどうかは

その人の自由だ。

 

カルマは、サンスクリット語で「行為」と訳され、日本語で「業」「因」と訳される。