分からないことは聞きなさい

「分からないことは質問しなさい。何でも聞いていいんだよ」と学校の先生は言った。

 子供の時、聞くことや質問することは意欲的でいいことなのだと思っていた。

 

 現在の私は、店をやっている。

お客さんが、聞いてくる。

「これって、何色ですか?」

「これって、大きいですか?」

「これって、ウチの玄関に合いますか?」

「どの香りが、いいんですか?」

「これ、買った方がいいですか?」

 それを聞いて、(どーしちゃたんだろう?)と思う。

それが、何色であるかは、見たら分かるだろう。

色には限りない名前がついていたが、現代では折り紙、色紙の色しか認識されていない

が、色紙通りの色など殆どない。

大きさ、それは、見た通りの大きさであってそれを大きいと思うか小さいと思うかは、

その人の使い道、用途によって異なる。

100センチが大きい場合もあれば、小さい場合もある。

その家の玄関に合うかどうかは、その玄関の大きさもどういう作りであるのかも知らな

い人に聞いて、どーなんだろう?と、思う。

 香りだって、自分の好みと感性で選ぶのであって、他人がいいと言っても、その人に

とっていいとは限らない。

 

「何でも聞いていいんだよ、質問しなさい」と言われ続けてきた人たちが、自分の頭で考

えるということを忘れてしまったのだろうか。

“聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥”なんていうが、聞けばいいってものでもない。

「これって、いいですか?」に至っては、自分がどう思うのか、どう感じるのかも、

分からなくなっているのだろうか?

百歩譲って、「これについて、あなたはどう思いますか?」という質問であるなら、

「私は、それ好きである」とか「私は、それは好きでない」などと答えることになる。

すると、「あなたは、強い人ですね」との反応が返ってくる。

自分の意見を持ち、それを言うことは、“強い人”ということになるのか。

 それと同時に、私が何かを質問して「その先は自分で考えてみるから時間を下さい」と

言った時、「生意気言うな、聞いたんなら黙っていうことをきけ」という流れになったり

する。

自分で考えて答えを出すことが強くて生意気なことで、聞いたのなら黙っていうことを

きけというのは、封建主義の化石のような考えだと私は思う。

人の考えや意見を聞くと振り回されるから聞かないという人がいる。

その反対に、何でも人に聞いて更に“鵜呑み”にする人がいる。

 “鵜呑み”とは、鵜という鳥が魚を丸呑みにすることからきている。

“鵜飼い”は、その習性を利用して、鵜の首に縄を巻きその獲った魚を吐き出させて行う

漁のことだ。

 私は、先ずは一度自分で考え、それから人の意見を聞き、調べ、又自分で考えて、

それで、自分の答えを出すべきだと思っている。

そして、自分の出した答えには責任を持つべきだと思う。

 

話は変わるが、

「本を読んだ時、そのことについて考えることに倍以上の時間を費やしなさい」と聞いた

ことがある。私もそうだと思う。

また、「たった一度しか読んでいない本を読んだと言ってはならない」とも聞いた覚えが

ある。

成る程、本というのは、読む時の自分の状況や心理状態によって全く違った顔を見せて

くる、何度読んでも違った感動や教えが見つかる。

 しかし、最近読んだ本の話をしていると速読や斜め読みでその内容を見切ったかのよう

に解説する人が多いのに驚く。

 そういう人の特徴として、自分が実際に読んで味わっての感想でなく、その人の感性や

考えではなく、誰かの受け売りや解説を聞いての解読になっている。

それは、一見筋の通った立派な意見のように聞こえるが、何処かがずれていると私は

感じる。

そういう人は生きる哲学や宗教を語りながら、身近な人を泣かせている気がする。

表面で物事の判断をして、深く見たり考えたりしていないと感じる。

 

人の意見について、何事においても、「本当にそうだろうか?」と考えると失礼だといわ

れるが、本当にそうだろうか?

鵜呑みにすることが、信頼だろうか?

私は、宗教でも権威のある者にしても、「いいから黙って言うことを聞け、口答えするな、

黙って信じていう通りにすればいいんだ」という有無を言わさぬ圧力を感じる時がある。

 それが、私にはどうにも気持ちが悪い。

「生きることは、考えること。考えることが、生きること」といろんな人が言い続けて

きた。

悩むのでなく考えることが、生きる意味だと…。

 

分からないことでも、考えたらいいと、私は思う。

考えて考えて、考え抜いて自分なりの答えを出す。誰かに聞くのはそれからでも遅くない。

自分の頭で考えないで、すぐに聞くクセを持つと、脳みそはドンドン怠け出す。

アハ体験というのが、話題になっている。

考えて分からないということが、脳を活性化させる。

そして、答えが分った時、分かったと思った瞬間に、脳は更に活性化するんだそうだ。

 

学校で教えるべきことは、

先ずは、その本人が、考えて、その答えを知りたいと思う気持ちを持つこと。

自分で調べ、それから解き方を教わる。

そして、分からないことが分かるのだ。

その時の喜びを体感したら、勉強はヤミツキになる。

分からない、知りたい、考える、調べる、教わる、分かる、気持ちいい。

その総てが、面白い。

それが勉強だと、私は思う。

そうなったら、「これって買った方がいいですか?」という人は、居なくなるんじゃない

だろうか。

 

 そして、何でも聞けば分かると思っている人も、少しは減るんじゃないだろうか。

聞いても分からないことがある。それが、人生、答えは自分の中にある。

                               なーんちって。