山下 清さん

 

 もうすぐ30歳に手が届く子供たちが小学生だった頃に、近くのデパートで山下清展が

あった。

 自分が見たいことが一番で、子供たちを連れて見に行った。

私は、清に並々ならぬ思い入れがある。

が、自分が入れ込んでいるモノの所には子供を連れて行かない方がいいのかもしれない。

子供と私は違う人間なのだ。

 会場での山下清の生作品を見て、その横に書かれている説明を読んでいたら涙が出始

めた。

子供に「どうしたの?」と聞かれ、説明しようとしたが、声が震え話すことが出来ない。

「もー、やだ」と二人が言い出し、「お母さん、ヘン!」「もう、帰ろう!」と

怒る二人を待たせながら、私は清の作品から離れることが出来なかった。

 

 山下清という人は昭和になる3年前に生まれ、昭和46年 49歳で生涯を終えた。

 

 あー、もー、これは、何処から何から書いたらいいか分からない。

先ずは、ここに、手元にある“みんなの心に生きた 山下清”から抜粋して彼を紹介する。

 

大正11年3月10日、浅草田中町、清、長男として誕生する。

翌年9月1日関東大震災、東京は廃墟と化す。彼らの家と職を奪って。

佐渡生まれの母と、父の故郷である新潟に戻るが、苦しい生活の中で清は消化不良に

かかり歩けなくなり恢復(かいふく)に3ヶ月かかる。

これが原因かどうかは分からないが、少し吃(ども)るようになり終生続く。

3人の子供と共に一家は浅草に戻るが、父親が死ぬ。

 母親は生活苦から二度目の夫をむかえる。

その父親は、痴愚(ちぐ)の清を嫌った。

「元来精薄児というのは喜怒哀楽の表情に乏しいものだが、清がその父親について語る

時のせつなそうな目つきは忘れられない」と式場氏は語る。

 式場三郎氏は、清の作品を暖かい愛情と慈しみで編集した人だ。

 

昭和9年、清が土間に蹴落とされたことで母親はその2度目の夫と別れる決心をする。

3児を抱えて杉並の母子ホームに身を寄せたが、6年生になった清は学校に居場所は

なかった。

「孤独は清少年にとって苦しいものではなかった」と式場は語るが、私はそれが分かる

気がする。

私に競争心と闘争心はないが、怒りはある。常に何かに怒りがあるのだ。

それを整理し表現することが出来れば、きっと納まりがつくという気がしている。

そして、私も淋しいという感情はあまりないのだ。

没頭出来ることがあれば、それだけで平和で幸せなのだ。

 私は何かを、それは形だけでない見えないモノを観察し推測し、答えを見つけることが

矢鱈と面白く、更にそれを文章に表していくことでこの上ない喜びを感じる。

 

 この頃、清は刃物沙汰を起こしている。そのことが、八幡学園に入るキッカケになる。

何が幸いして人生を変えることになるか分からない。

 そこには、八幡学園の初代園長である久保寺保久氏が居た。

 

昭和3年 精神薄弱児の保護育成のために自宅を開放し、経済的困難のため所持品の

殆どを売却しての学園運営。

昭和8年 日記をつけ、読み書き、図工、農園芸の他に貼り絵という新しい分野の

課目を始める。

 

精神薄弱者というとぼんやりして真面目に仕事をして従順という印象を持つ者が多い

ように思う。

 が、しかし、私の知っている智慧遅れといわれる子は、どうしてどうして、普通とい

われている人たちより、自分の意地とスタイルを持ち、それに固執する。

 身障者で車椅子のお笑い芸人、ホーキング青山は、世の中の人たちは身障者というの

は性欲も悪の気持ちも持たない善人だと思い込んでいる人が何と多いことかと嘆き、

自らの心を裸にすることで社会に喧嘩を吹っかける。

私の知る身障者でも心の病を持つ人でもみんな千差万別で、天使のような人も居るが

ずる賢い人も居る。〜だから〜な筈だという図式は、どんなモノであっても一つに括る

ことは出来ないのだと思う。

 

八幡学園に入った清はワルだった。布団の中から空になった鉢や、でんでん虫、ひき蛙

の類が出てくるのは清に限ったことではなかったが、裏のどぶ川から他の園児の服が出

てきたり、近所の桃畑から苦情がくることには閉口したと当時清の指導をした渡辺がいう。

 その清の苛立ちを救ったのが貼り絵だった。

最初は、単純に金魚や虫の形にちぎった色紙が白い画用紙にそのまま貼られていたが、

白紙への抵抗が始まる。

 これでもか、これでもかと貼り付けられていく色紙。

誉められたことのなかった清が作品を誉められたことと、学園の訓練の中で一番楽な貼絵

に時間をかけていいとなれば、益々丁寧に緻密になっていったのだろうが、それだけでは

ない何かが清を動かしていた気がするが、そこに八幡学園の親身の指導が大きいことは

紛れもない事実だと私は思う。

 清はせっせと花の小品を貼り続け、数十点の花の静物が出来たころに、突然学園から

姿を消す。昭和15年11月18日のことだった。

6年半住んだ八幡学園を、清は何の未練もなく後にする。

昭和9年(12歳)に“八幡学園”に入園し昭和15年(18歳)から学園を脱走して

放浪の旅が始まる。

 

 清は類まれなる記憶力を持ち、放浪から帰るとそれを日記に書きとめた。

というより、日課として書かされた。この日記は断続しながら15,6年書かれている。

貼り絵もそこで制作される。

 清の日記を読んでいると、彼の自由な心には、羽が生えているんじゃないかと思う。

清はかたくなだったらしい。

感性や情緒は豊かだったが普通といわれる感情には欠けているように見えたという。

そのかたくなに閉ざされていた心をときほどいたのは八幡学園の指導者たちだった。

突然学園から姿を消し放浪を続けていた清は、朝出かけて今帰ったかのように、

「ただいま」と当たり前のように学園に戻る。

そして、日記を書く、張り紙をする。

それは書かされた、やらされたということでありながら、それをすることが清にとっての

重しであり楽しみでもあったのだと私は思う。

清は、清い魂を剥き出しにした哲学者であり、思想家であったと私は思うのだ。

 

放浪では、毎日物乞いの生活が続く、自分でもよくないことだと日記に書きながらも

辞められないルンペン。

「僕は毎日毎日ふらふらして遠い所まで歩いて行ってるんぺんをしているのは 自分で

もるんぺんと言う事はよくないということはよく成いという言うのは知って居て

るんぺんをして居るのは自分のくせか自分のくせか病気だろうと思うので

毎日ふらふらして歩くのはくせか病気だからくせか病気は急になほら無いから

だんだんと其のくせをなほそうと思って居るので今年一ぱいるんぺんをして来年から

るんぺんをやめ用と思って学校の先生とそうだんをしたので幾らくせでもなほそうと

思へば今からでもすぐ其のくせがなほると言はれたから今度からるんぺんをするのを

思ひきってやめ用と思ひます

もしるんぺんをした場合は病気と思はれてもかまひません

  昭和29年4月11日  山下清

 八幡学園長様

 

 清の貼り絵の方の作品を見て「面白いことに」と式場氏は言う。

「好き勝手して放浪してきた後の作品はいいのに、何処かに奉公した後の作品は感心

しない」というのだ。

 でも、奉公によって貼り絵の作品にきらめきがなくなったとしても、奉公先での話は

清の哲学と思想を表していると思う。

彼の日記には、人は何を誇りとすべきなのか、世の中の矛盾と不合理、理不尽さが清の

簡潔な言葉によって語られているからだ。

 不合理不条理は、人を哲学者に育てる。

 

清の日記。

 魚屋に奉公した時の事

「両方いちどにはできません」

魚屋の仕事には係があって 僕は係の仕事を責任持ってやっていると いそがしく

なるとあっちも山下 こっちも山下と使われ 僕の姿が見えるたんびに山下と呼ばれて

使われます

云われた仕事は先にやるのが本当で 云われた仕事を先にやって自分の係りの仕事が

遅れると「もっと早く仕事をやれと」と云われて「早くしろ早くしろ」と催促されます

云われた仕事を先にやったから 自分の仕事が遅れて 小言を云われたので 小言を

云われないようにするために 云われた仕事を先にやると 自分の係りに仕事が遅れる

から先に自分の係りの仕事をやってから云われた仕事をやると「山下は云うことを聞か

ない」と云って また小言を云われるので 僕は困ってしまいます

昭和17年 20歳

 筋が通っていないのは、清なのか清を使おうとしている人間なのか、どっちだ。

 

「人並より劣っていても人間です」

 御飯食べる時 旦那さんから「山下は人並より劣っているので此処で山下より下は

無いので 山下は一番下司だから 皆が食べ終わったころ食べて 山下は御飯でも

おかずでも おつけでもこうこでも一番古いのを食べろ 新しいのは上の人が食べる

から 何でも古いもんから食べろ」と云われてしまいました

僕はいくら人並より劣っていても やっぱり人間だから うまいものを食べたいと

思っても 主人の命令だから仕方なく 我慢して一番古い物を食べます 古いものを

食べると味が変わって うまかないので 夏はすぐ食物がくさって 御飯がすえくさく

なって洗って食べるか すえた飯をにぎって焼いて醤油付けて食べます

僕は飯を三ばいときめて食べて 一ぱいか二はい食べて 後一ぜん食べようとしたと

ころ 子供の食いかけか人の食べ残しを 旦那さんが「これを食べろ」と云われて 

僕は「人の食いかけは気持ちが悪い」と云ったら「山下はなかなかしゃらくせえ」と

云って「食う物が沢山あるからしゃらくさい事を云うんだろう」と云いました

僕は「人の食べ残しは誰だって気持ち悪がって食べない」と云ったら「山下は普通の

人間と違って人並より劣っているんだから 食べ残しで沢山だ」と云われました

      昭和17年夏  20歳

 

現代のこの豊かな世の中で、欲しいものは欲しいが努力するのは嫌で、自分の誇りを

簡単に捨てる人が多くなった気がする。

だってそうしないと欲しいものが手に入らないんだものと、金のタメに身体を売る

女が居たり、自分の身を守り立場を良くするタメに、本当のことを言わない人が居る。

清は人並でないのか? 誇りを捨てて、人に上下をつける人が人並なのか?

 

藤本義一だったかが、雑誌のエッセイで清のことを書いていたのを読んだことがある。

藤本が記者をやっていた頃で清が画伯と呼ばれるようになっていた頃の話だ。

 ある時、清の記事をまとめるために食事会をしながらインタビューをするという企画が

あった。

 有名なレストランで、清を囲んで食事しながらのインタビュー、そこで一人の記者が

ヘマな質問をしたというのだ。

「どうして鉄道を伝って旅をするのですか?」

「そっそれは、鉄道は一本道だからなんだな。

道路はあちこちに繋がっているので便利なよういでいてかえって違う所に行ってしまう

んだな。

近道をしようとしても違う所に出てしまうと元の所には戻れないんで、遠回りでも行く

先が決まっている鉄道を行くほうが結果的には近道なんだな」

「それで、鉄道で何か面白いものは見ましたか?」

 かー、この質問が悪かった。

「そっ、そうだな。鉄道で轢かれている人を見たな」

その瞬間、藤本はマズイ!と思ったという。

そこへ、スープが運ばれてきた。ポタージュスープだった。

「あっ、頭が割れていたんだな。そして、こんなドロドロしたものが出ていたんだな」

それが皮切りで、肉が出ればそれを切りながらその時の様子を丹念に事細かに、

彼特有の緻密で正確な説明が最後まで続いたという。

清の観察力は、他の者を寄せ付けない。その延長線上にある表現力も群を抜く。

その清の話を聞きながらの食事、いくら話を違うものに変えようとしても次のメニュー

が出てくる度に「ちょ、丁度こういう風だったんだな」とそれがどういう様子であった

かの話になった。

 清はどれも美味そうに平らげたが、それ以外の人達は、そのご馳走を殆ど食べられな

かったという。

 

 戦争を怖がり兵隊にとられることを何より怖がっていた清は、徴兵の検査を逃れる為

放浪していたが、昭和18年の春、検査の年が過ぎたのでもう大丈夫だろうと新宿に住む

母の家に姿を現したところで、結局徴兵検査に行くことになる。

 そこで清は、自分はいかに頭が弱いか、どんなに力がなく底なしの臆病者であるかを

とつとつと説明する。

「もうよし、お前は不合格だ」と検査官にいわせるまで。

 そんな清が、昭和24年 27歳で「東京の焼けたとこ」を貼り絵で再現する。

「大東亜戦争」を作る。

焼け野原に死体が転がる広い空も、やーやーとアメリカ兵と日本兵が走り回る広い空も

いずれものどかに見えるのは何故なんだろう。

昭和12年 15歳の時「お化け」の貼り絵を作っているが、

「お化けはこわいか?」と清に聞いたところ

「ほんとうにいるかいないかわからないものはこわくない」と答えたという。

 彼にとって現実に起きていないことは、現実ではなく、そこに在ることもそれはそれで

研究者が覗く顕微鏡の中の研究材料のようなものだったのかもしれないと思う。

 

ある人が清をストリップ劇場に連れていったのだという。

そこでその人は、清のあまりに真直ぐな、感情を越えたところにある観察する目に自分

はやってはいけないことをしてしまったと心底後悔したという。

 

不埒(ふらち)という言葉がある。

埒(らち)とは、辞書で調べると馬場周囲の柵のことで物事の区切り。とある。

埒が明かないとは、物事の決まりがつかないこと。事がはかどらないことだという。

不埒とは、「けしからぬこと」と辞書にあり、不法なこと、けしからぬこと、ふとどきな

言動、不始末。とある。不埒な真似をしてはならないのだ。

 

放浪の旅は、勿論面白いことばかりではなく、危険や苦しい目にも沢山合っている。

28歳の清は甲府の駅で腕をまくり上げて「おとなになると、何故毛が生えるのか」と

待合室の群集一人ひとりに聞いてまわった。

そして、たちまち警官に捕まり精神病院に3ヶ月も閉じ込められることになる。

やせ細って学園に戻ってきた彼が一番に作った“田舎の精神病院”は、明るい作風ながら

日記には、その時の悲惨な一部始終がノート2冊に書かれる。

私は、彼の日記というのは、描くのでもなければ、綴られるのでもない気がする。

ただ書かれているのだ。  あー、私がやりたいのは、これなんだよー。と、思う。

 

私の所に精薄者の子がやってくる。

以前に書いた竹男ちゃんとトシちゃんだ。

いつも平和な竹男ちゃんが、時々淋しい病に取り付かれる。

すると決まって言い出すのが、

「あー、お嫁さんが欲しいなぁ」「結婚したいなぁ」

彼は、私より2つ年下の申年生まれ、今年51歳になった。

「さみしいなぁ」という彼に私はいつも言う。

「傍に人が居たって、淋しい時は淋しいし、そういう時の淋しさは一人で居る時よりも

もっと淋しいのかもしれないよ」と。

 

何故なんでしょう、岡本太郎が一心不乱に何かしている太い襟足と、山下清が無心に

貼絵をしている時の襟足を見ると、それは写真であるのに涙が出てくる。

 

ヘレンケラーが映画化され、その題名が“奇跡の人”だった。

私は、その映画を観たことがあったが、主人公はヘレンケラーだとばかり思っていた。

しかし、最近のテレビで奇跡を起こした主人公とされているのは、アニーサリバンだ

と知った。

あのサリバン先生だ。

 サリバンが、幼い頃の栄養障害の為に目が悪くなっていたということで眼鏡を掛けて

いたことは覚えていたが、サリバンは子供の頃に、精神的孤独と人間不信から病院に

収容されていたのだという。

そこでの彼女は、食べ物を受け付けず死を待つばかりであったという。

 その時、サリバンと同じ位の幼い子を持つある看護婦が、彼女に声を掛け、

毎日クッキーを焼いて彼女の元に届けたという。

「あなたは一人じゃないのよ。ここに私が居るわ」という言葉と共に。

そして、誰の言葉にも見向きもしなかった彼女が、クッキーに手を伸ばす。

 その少女がサリバンなのだ。

21歳でヘレンケラーの家庭教師になったサリバンは、盲目で耳の聞こえないヘレンに

毎日言ったのだという。

「あなたは一人じゃないのよ。ここに私が居るわ」

 

 今、その声を待つ人が、どれだけいるんだろう。

 

八幡学園の標語が石に刻まれている。

踏むな

     育てよ

       水そそげ