やる気スイッチ

 

「子供をやる気にさせるにはどうしたらいいですか?」という問いに答えて

ある人が言ってた。

「やらせようとしないことですね」

「そして、子供がすべきことは本人に責任を持って行わせることです」と。

 

 私は、大人の口出しが多すぎると思う。それは、ずっと、感じてきたことだ。

「こんにちは」と子供に言うと、間髪入れず「こんにちは、は?」と親(主に母親)が

横から言う。

 ちょっと〜、待てよぉ〜。と思う。

そういう親に限って、どーゆー訳だか、自分は挨拶や礼を言わない人が多い。

 子供に教えることに目が行っていて、自分の行いには気が行かなくなっているのか。

 

先日も「トイレは何処ですか?」という母親が居た。

教えると礼を言わないどころか返事もせず「ほら、あそこよ」と小学生の娘に言った。

 人に何か聞いたら、あーそうですか。で、ありがとう。だと思うんですけどぉ。

娘も、黙ってトイレに行こうとするから、

「おねえちゃん、トイレ借りたかったら自分で言うんだよ」と、思わず言った。

 あ〜、また始まったよ自分。と思いながら、残された母親に

「ねぇ、お母さん。

私、あの子位の時にトイレに行くのは恥ずかしいことだって思い込んでいて、授業の時に

『トイレに行きたい』って言えなくてウンコ洩らしたことがあったんですよ。

ウチの母親って人が、私の代わりに何でも喋っちゃう人で、自分で考えて行動するんだ

ってことが分かっていなくて、ハッキリ言ってイロイロ苦労したんですね。

だもんで、トイレに関してはつい余計な口出ししちゃうんですよ。

余計なこと言ってごめんなさいね」

「あ、いえ」と言う母親に拒否、否定を感じなかった。

「一回、自分のことは、自分の口で言うんだ。ってことが分かったら本人も安心ですよね」

「そうですね」と母親が納得しているものを感じる。

良かった〜。と思う。

「昔からそうだったのか分からないけど、中学生になっても、高校生になっても

本人が言わないで母親が聞いてくるのが多いよね」と店員を振り返る。

「そうそう、で、そういう子って何故かブーって怒ったような顔して、お礼も言わないで

コソコソ居なくなっちゃったりするんですよ」と追い打ちを掛けるようなことを言うが

母親は納得した顔をしていた。(ちょっと、赤くなっていたから反省もあったのかも)

そこに娘が戻って来たが、やっぱりそのまま行こうとした。

母親が「ありがとうは?」と言うと、照れもなく「ありがとう」と素直に言った。

 

 私が話したいと思うのが、こういう母親と子供だ。

何をどうしたらいいか分からず、分からないことも分からず道に迷っている気がするのだ。

 子供が考えるべき所に、一生懸命先回りして口を出し、子供が自分で言うべきことを

代わりに喋る。

 子供の為だと思って、親の思う道を歩かせようと、命令し、脅し、おだて、大袈裟に

誉める。

 子供に親の理想を押しつけながら、自分は感情的で感情のコントロールが出来ない親。

コントロール出来ないからこそブレーキを掛けることが出来ず、理想を押し付けるのかも

しれない。

 

 小学生の男の子(3年生と見た)を連れた母親と母親の友人。

「ねぇ、〜ちゃん、お利口に遊んでね〜」とその口調は幼児に言うような赤ちゃん言葉。

 子供がそこにあったブロックで遊び始めると

「あ〜、上手上手〜?」と大袈裟に言っていたが、少ししたら

「ねぇ、〜ちゃん。こっち来て!」と呼んだ。

出したオモチャをそのままに母親の所へ行く男の子。

 そして、呼んではみたが特に用事があったわけではなかったらしく、母親は友達と話し

ている。

そして、「なーに、お母さん」と言う息子の問いかけには答えない。

何度も何度も「おかーさん」を繰り返す息子。それをずっと無視する母親。

そのうち男の子は何も言わなくなった。

子供は不貞腐れた顔で“遊んだらかたづけようね”と書いてあるオモチャを出したままに

帰って行った。

 残念だと思った。

 

 こういうことは、日常茶飯事。

母親は、何故男の子を呼んだのか?

 目の届く所に置きかったのだろうか?

母親は、自分が呼んでおいて何故返事をしないのか?

 最初のベタベタ喋りと相反する、失礼極まりない無視。

甘やかして置いて、甘やかし過ぎは良くないからと意地悪をする親が居るらしい。

 甘やかすことと、愛することは違う。無視は人権侵害だ。

 

 娘とやる気の話になって

「じゃ、やる気にさせるにはどうしたらいいの?」と聞いてきた。

「ん?だいたいが、“させる”っていう押し付け的な言葉が嫌だな」

「まぁまぁ、そこは置いといて、じゃ、やる気になるにはどうしたらいいと思う?」

「そうだな、本人が目覚めることだな」

「どうしたら目覚める?」

「やる気っていうのは、人に言われて出るもんじゃねえんだな。

いや、逆に言われるとなくなる。ちゅう構造になってるんだな」

「だーかーらー、どーしたらいいのよ!」

「何にもしねえことだな。っつても、何にもしない。っていうのは語弊(ごへい)が生

じるな。

環境を作って手を出さない。口を出さない。だ」

「それは、何を、どーするの?」

「そん時によって一つ一つ全部形が違うから、一口では言えない」

「じゃぁ、何か例を作って話してよ」

「じゃ、このトイレに行きたい子の場合。

『お母さん、おしっこ』って、子供が言うわな、そしたら、

『そういう時はどうしたらいいと思う?』って聞くんだ。

『お店で借りる』って言ったら

『じゃ、そうしたら』って言う。

『何処に在るの?』って聞いてきたら、

『聞いてみたらどーよ?』って提案する。

『誰に?』

『誰に聞いたらいいだろうね』

『お店の人かな』

『そうだね』

『あの人に聞いてみる』

 ってなったら、もうそこから、子供の行動は始まる。

分からなかったら選択肢を与える。そして提案してみる。

共感と肯定。ってのは、やる気の御馳走だな。あと誇り。もな。

面白いよなぁー。毎日が、気付きと実験、研究の場だ」

「面白いね」

「な、面白いよな。自分のやりたいことは、自分の口で言う。伝える努力をする。

どうしたらいいか、自分で考える。自分が行動する。

 それを、親は水を向けるだけで、一歩引いて手出し口出しせず見守る。待つ。ってのが、

環境を作るにあたるな」

「そんな親、なかなか居ないね」

「うん、だけど、有難いことに嫌なことを神様が与えてくれてるから大丈夫なんだな」

「何それ、どういうこと?」

「人って、困ったり悩んだり嫌な気持ちにならないと動かないように出来てるんだなぁ。

だから、困ったり、悩んだり、嫌な気持ちになる。ってのは有難いことなんだとワシは

思うんだ」

「フツ―そんな風には思わないよ」

「うん、そうかもしれない。だけど、そこに気が付いたら生きるのが楽になると思うな

そんでもって、その嫌な気持ちのお知らせから自分の軌道修正をすればいいんだと思う

答えは自分の中にあるんじゃないかな。

人が何と言おうと、これでいい。って、スッキリした気持ちになる。ってのが、答えじゃ

ないかな」

「そうかもしれないね」

 

 

   家族関係での悩みを聞く。

それは我儘で横暴な母を持つ娘からだったり、感情のコントロールをしない息子を持つ

母親だったり、失礼な娘を持つ母親だったり、話の通じない夫婦だったり。

その人たちに共通点を感じる。

その相手が気になっている。心配だったり、目ざわりだったりして、スッキリとした

自分の生き方が出来なくなっている。

 その気になる人が目の前から居なくなって欲しい。とまで言う人も居るが、私はやっぱ

り家族だからこそ与えられた有り難いテーマなんだと思う。

 

 やる気も集中力も、正しい道も、雑音と横やり、嫌なことの中から生まれる。

自分の努力で育てて行く。

 ウルサイから集中出来ないというのは、分からない為の努力不足。

本気になったら周りの音は聞こえなくなる。

 子供がやる気になることを望むなら、子供の手足口を押さえないことだ。

だけど、子供が何時までも押さえられていることに甘んじているとは思えない。

 

 子育てに、人生に、失敗はない。と、ワシは思う。

今までのことは、すべて宝。

 だけど、何だか違和感がある。としたら、それがお知らせ。

そこには、軌道修正のテーマがある。

 それを人や何かのせいにしたり、“逃げる必要”はない。

テーマが見えたら、もう以前の生き方は出来なくなる。(以前はそれで良かったが)

 自分を育て、教育していくことが、子供が、家族が、人が育つことに繋がっていく。

子供を育てる為に自分を育てるんじゃない。自分が育つ先に、子供は子供で育つ。

 感情に振り回され、不機嫌になったり不貞腐れたり、逆切れ、八つ当たり、嫉妬、

ねたみ、嫉み、恨み、から脱却する努力を始めるんだ。

そんなの出来ない?

出来るか、出来ないかは結果。

 自分はただその努力をするだけ。

努力を続けるのは、誰でも出来る。

 

 人の、本当のシアワセを望むなら、自分は自分の中に戻って、自分の道を歩く。

家族の自立、自律は、家族であっても、その本人が行う。

 すべて、本人がその気になって動く。

 

 やる気スイッチは、本人が押す。

 

 さーて、私は私の道を歩こう。っと。