やる気2

 

 子供が遊ぶ場所があるんですがぁ。

そこでの親子(母と子)のやりとりが、どーしても気になってしまう私はなるべく近くに

行かないようにしているんですね。

 ん、ですが、つい耳に入って来てしまうんですよねぇ、これが。

 

 子供(3歳位)がオモチャを落とす。

すると、さっと母親がそれを拾った。(本人が拾うのを待たない)

 また落とす。

今度は、子供が「ん!」とアゴでそれを指し示した。拾え、ということらしい。

それに対して「落とさないでよ!」と怒りながらも拾う母親。

次に落とした瞬間、即座に「落ちたよ!」と言った。(言わなくても分かるべ)

そして、「拾いなさい!」と声を荒げた。

子供から離れず、終始イライラとしたオーラを放ち続ける母親。

 グズグズと文句を言う子供。

 

 そういう人を見ると(あー、話をしたい!)と思う。

なもんで、今回は、以前やってた講演会風にまとめてみました。

 

 その子供から目を離さず鬼のような形相で子供を睨んでいるお母さんに言いた〜い。

しかめっ面を止めて、穏やかなユッタリとしたイメージを持ってみて。

そしたら、目の前の子供が楽になって、それと同時にお母さん本人が楽になるよ。

って、それを目の端で見ている私も、かな?

 

 その時、子供が「これ見て」って、組み立てたオモチャを持ちあげて見せようとした

んだけど、それを見ようとはせずに「終わったら片付けるんだよ」とお母さんは言った。

でも、それは、返事になってねえべ。ねぇ。

なーんで、「見て」って言ってるのに、見ないかなぁ(見てあげるんじゃないよ)、

そして、ちゃんと会話をしないかなぁ。(もったいなーい)

 

 簡単なことだと思うんだけど、分からなければ難しいのかもしれない。と、

自分が勉強を分からなかった時、何が分からないかが分からずにいたことを思い出した。

 

 正解かどうかは分からないが、こうしたらいいんじゃないか。と思うことを言います。

それは、年齢やその子の育ちによって千差万別。

その時に起こっていることは、全てはライブであることを念頭に於いて聞いて頂きたい。

 

 子供がオモチャを落とす。

さーて、子供はどうするか、大人は口や手を出さず、様子を見たらいいと思う。

子供が感じることに口を出さず手を出さず、出来たら気配さえ消して邪魔をしない。

落ちた、落とした。ということは、大人が解説しなくても子供には分かります。

 一々解説するから、それを気にしない鈍感な子供になっていくんです。

子供が見て、聞いて、感じることを、大事にして下さい。

 それ(大事にする)は、手出ししないことです。

 

穏やかでやる気のある、自分の頭で考えて命令でなく自分の意志で行動する人間になる

ことを望みませんか?

 だったら、子供の感受している所に踏み込まないことです。

「ほら、落ちたよ」「ほら、見てごらん」「聞いてみて」「やってみなさい」「片付けなさい」

 何かに熱中している子供を、グイッと違う行へと目を向けさせ、命令しようとする母親

を、毎日見ない日はありません。

 実は、私の母も電話が鳴ると「ほら、電話!」何か落ちると「ほら、落ちたぞ!」と

ずっと私から目を離さずにいて先回りして解説する人でした。というか、今もそうなん

ですが、80歳を超えてもういいか。という感じに私はなってきています。

 でも、その後遺症でしょうか、電話が鳴った時「電話よ」と言う人が居ると

「聞こえてるよ!」と言いたくなります。

 そして、だから、押し付けと支配のクセ習慣を持った母親が、人の領域に踏み込まない

人になることを、こんなに望むのかもしれません。

 話が逸れてきました。

 

では、「片付けなさい!」という命令の言葉をどう変えたらいいか。ですね。

「オモチャ貸してもらって良かったね。楽しかった?

もう帰るからお片づけしようか」という言葉にしてはどうでしょうか。

すると、そこには、感謝の気持ちと子供へのリスペクトが現れます。

リスペクト(敬意)された人は、リスぺクトのある人になるそうです。

 

 子供を育てているお母さんには大きく分けて二つあると、私は思います。

子供と居ることが苦でない、ゆったりとした大らかな人と、

何故か焦っていて、何かに追われているかのようにこうしなければならない。と苦し

そうに見える人です。

 この二つの違いは何だろう?と観察してみたら、前者は、見栄を張らず人目を気にせず

自分のペースを持っている。だから、目の前にあることがちゃんと見えます。

 後者は、見られることや常識、これはこうあるべきだ。ということに囚われ、縛られて

いるので目の前にあるものが見えなくなっているんじゃないか、と思うのです。

だから「おかーさん、これ見て」と子供が言っているのに「片付けてね!」と的外れな

返事をするようなことになります。

 

面白いことに、命令とセットで出る言葉が「早くしなさい」「どーしてあなたは」「もー!」

で「いやんなっちゃう」なんですね。

 それを聞くと、あー、聞いてるこっちだけでなくやっぱり本人も嫌になってるんだなぁ。

と思います。

 でも、大丈夫。嫌になるってことは、これじゃダメだな、どうにかしなければ。という

お知らせで起爆剤ですから。

 穏やかで平和な気持ちに変わりたい。と思った瞬間に変わりはじめます。(キッパリ)

 

 イメージを持つだけで人は変わる。と私は思っています。

因みに、私がなりたいイメージは、

穏やかでゆったりとした、それでいて媚びない毅然としたシャンとした、でもユーモア

があって面白い。そんなイメージです。(ちょっと欲張り?)

 あなたは、どんなイメージをお望みでしょうか。

それが決まったら、次にそれに向かっての行動が定まり進んで行くことになりましょう。

 って、何者?

 

 

  <やる気のまとめ>

 やる気。の基本は、誰に頼まれたんでもない。自分が決めて自分の意志で行っている

んだ。という自覚が誇りとなり、誇りはイコールやる気になる。

やらされている、やらないと笑われる、やらない訳にはいかない。などという気持ちは

「自分がやりたいから、やっているんだ」と言葉に出して切り替えます。

 

自分をリスペクトすることも、やる気に通じていて、どうしてもお掃除片付け整理整頓

などが出来ない、やる気になれない。という人は、人に排除されている。されてきたと

いう思いや、そういった場合がある。といいます。

 そのような場合は、リスペクトを他に求めず自らの中に育てて行くことをすれば、騒が

しい中でこそ集中力を磨き身に付けられる。のと、同じで、盤石なモノが出来るのです。

 「〜でないから、ダメだ」という考えは、「〜だからこそ、揺るぎのないモノと出来る」

のであって、困難は味方に付けてしまえばいいのです。

 

 ご褒美や見返りがあると、ない時と比べて何倍もやる気が出る。

面倒なことをすると1回百円が貰える。という条件が与えられる。

その時は、脳ミソの“線状帯”という所が活発に動き、いわゆるモチベーションが高い。

という状態になる。らしいです。

 でも、そこは依存や快楽に関係する部分で、一度ご褒美、見返りなど美味しい思いを

味わってやる気を出した脳は、それがなくなった途端、やる気のカケラもなくなる。

“アンダーマイニング(土台を削り取る)”という状態になる。といいます。

 勉強すれば、何か買ってもらえ、認められ、良いことが待っている。と結果主義で

見返りを求めて頑張ってきた人が挫折の道を辿るのは道理かもしれません。

 

 ご褒美がなくても行っていた人は、嫌々ながらやっていたとしても、そういった状態

全くやる気がなる。ということはない。そうです。

 

 その時に、損得勘定でなく、自分は良いことをしている。誰かの役に立っている。

と思えた時、それこそが、見返り以上の最高のご褒美となりやる気が吹き出すそうです。

 

 モノに釣られて行動することは嫌だと思い。自分のプライドに掛けてそういうことは

しない。と私は思って生きてきたんですけど、これを読んだ時やっぱそうかぁ。と、納得

しました。

 見返りを求めず、自分の意志と信念で生きていきたい! と思っていま〜す。

 

       御清聴、有り難うございました。