誘導尋問(ムカドン)

 

 僕が子供だった頃、毎日夕方になると近所のオジチャンが風呂に入った。

夏場なんかだと門限の6時を過ぎてもまだ明るい。

 風呂場はその家の東側にあって、風呂場の前を通り過ぎると、開け放した風呂の窓

から「おー、勇蔵ちゃん、今帰りかー?」とオジチャンが声を掛けてくる。

 帰りが早い時だったらオジチャンの話に付き合うが、遅い時は「うん」と言っただけで

慌ててそこを通り過ぎる。

 少し早い時は、オジチャンに付き合ってちょっと話していく。

オジチャンは、風呂の水を鼻にも口にも入れて吐き出してから、手ぬぐいで顔といわず

首といわずこする。それから口の中も鼻の穴も手ぬぐいで洗う。

 それが気持ち良さそうで僕も真似してやったことがあるが、風呂の中に白い垢(あか)

がイッパイ浮いて、お母ちゃんに大目玉を喰らった。

 オジチャンは毎日それをやっているので、もう僕みたいに垢がでないのかもしれない。

と思ったもんだ。

あの頃の風呂は水を汲んでからマキや石炭で沸かし、シャワーなんてない時代で

風呂の水が少なくなると裸のままで風呂から出て、残り火にマキを足して、お湯が熱く

なってきたら水を足した。

 

 オジチャンの家の前を通りかかった時、(考えてみると、あの頃は人の家の庭を横切る

ことなど「おかりしまーす」なんて言ったぐらいにして、日常茶飯事だった)

僕の家と同じ貸家で、ふた間しかない座敷にオバチャンが座って洗濯物を畳んでいた。

そこにオジチャンが、枕を投げつけ、枕が当たったオバチャンが、それを掴んで

オジチャンに投げつけた所だった。

僕と目が合った二人は、ふざけてるみたいに、笑いながら枕を投げ合って見せた。

 

 オバチャンは原節子に似ていて、何時も卵の白身を顔に擦り付けていた。

僕は原節子が嫌いだ。

 

 オバチャンは誘導尋問が上手い。

「勇蔵ちゃんちのお父ちゃんとお母ちゃんは、喧嘩なんかしないだろ?」

「ううん、するよ」

「へー、ウソだぁ。仲がいいから喧嘩するなんて信じられないよ」

「でも、するよ」

「ホントにするのぉ、どういう風にするの?」

 そこで、僕はお母ちゃんが怒鳴ったとか、お父ちゃんがちゃぶ台を投げたことがある

とか、

僕は、オジチャンとオバチャンの喧嘩を目撃してしまったお詫びのような気持ちで、

喧嘩するのはオバチャンちだけじゃないよ。ってな気持ちで喋った。

 すると、オバチャンは自分のことは伏せておいて僕の言ったことだけをお母ちゃんに

話した。

 そして、僕はお母ちゃんにどつかれた。

 

「勇蔵ちゃんちは、お金持ちでいいねぇ」

今考えると同じ形の小さな借家に住んでいた僕の家が、金持ちのわけがない。

 でも、そう言われると(へー、僕んちって金持ちなんだぁ)と思って悪い気はしない。

「勇蔵ちゃんち、洗濯機買ったんだって」

「うん」

「へー、スゴイねぇ。じゃあ、お父ちゃんイッパイお給料持ってくんだろ?」

「んー、分かんねぇ」

「じゃ、今度お母ちゃんに聞いてみな」

 と、オバチャンが言っていたその時、オバチャンの家にも洗濯機があったらしい。

が、箱をかぶせ、隠されていて使う時だけ外していたので、それがあるとは僕は分から

なかった。

 何故かオバチャンはそういう手を使った。

 

 正直オバチャンに話しかけられると(ゲッ!)となることがあったが、無視するのは

悪い気がして出来なかった。

「勇蔵ちゃんは頭いいねぇ」と言われると悪い気はしない。

そして、

「頭いいから通信簿は5ばっかりだろう?」と言われるとウソをつくのが嫌な僕は

「そんなことないよ」と答える。

「じゃ4ばっかりかな?」

「4もないよ」

「えー、ウソだぁ」

「ウソじゃないよ、オール3だよ」

「そんなハズはないだろ、それは先生が間違ってんだわ」とオバチャンは笑いながら

言って、また、それをお母ちゃんに話す。

お母ちゃんは腹を立て

「オマエはオシャベリなんだよ、何でもペラペラしゃべてんじゃねえ!」と、

僕はどつかれることになった。

 

 あー、今考えると、本当におしゃべりなのは誰なんだよー。つう感じ。

僕は、お母ちゃんにどつかれたって、オバチャンたちが枕を投げ合って喧嘩してたなんて

喋ってねえぞ。

 でーも、なぁ、こうやって今、書いちゃってるからなぁ。

やっぱし、オシャベリか!?

 

 とはいえ、そこん家には僕の仲良しのコウイチ君が居た。キレイなお姉ちゃんも居た。

コウイチ君はオバチャンに似ず、一本気で曲がったことやズルイことが大嫌いで、わが道

を行くといった感じの信用のおけるヤツだった。

 僕が、ヘラヘラしたお調子モンで、遊び人で、運がいいって感じなら、コウイチ君は

ちょっと不器用で最初はパッとしないが、何でも努力でモノにしていく、って感じだった。

 

 それがある日、お母ちゃんが妙に機嫌が良くニコニコして、

「勇蔵よ、オメエは、ホントーに、バカだな」と言ってきた。

何で機嫌が良いのか、その時はいくら聞いても答えないので分からなかったが、

後になって分かった。

 

授業参観があって、オバチャンとお母ちゃんは一緒に出掛けた。

参観している教室の後ろには色んな作品が貼り出され、飾られていた。

 今は、個性を尊重しながら平等(矛盾してねーか?)が、モットーで全員の作品が貼り

出されているらしいが、昔は先生が優れていると思うモノ“だけ”がバンバン貼られた。

 そこに汚い字の詩があった。名前は書き忘れたのか、ない。

オバチャンは、それにえらく感心してしまった。

「ちょっと、見てみなよ!

小学生でこんなの書く子供が居んだねぇ。これを書いた子供はただモンじゃないよ」

作文もあった。

「これ、同じ子供なんじゃねえの?字が同じだもの」

それにも名前がなかった。

 お母ちゃんは悪い予感がして「んー」と言葉を濁した。

ダメ押しに絵があって、それにも名前がなくオバチャンはそれを絶賛した。

 よせばいいのに、参観が終わってからオバチャンはその作品を書いた子供の名前を

先生に聞きに行った。

 3つとも僕だった。

オバチャンの顔色が変わって、その帰り道、オバチャンは一言も口を利かなかったらしい。

 

「お母ちゃん、困っちゃたよぉー」とその時のことを話すお母ちゃんは、ゼンゼン困って

いなかった。

そして、その時の「勇蔵、オメエは、ホントにバカだなぁー」という言い方には、

珍しくニコチャンマークが見えた。