耳鼻科

 職業婦人だった知人が退職し、悠々自適の暮らしになった。

私より少し年長の彼女は、自分の生活時間を豊かに上手に使う。

夫は留守が多く、一人息子も海外で暮らしていて一人暮らしの自由を満喫しているらし

い。

そして、ガーデニングとプールにはまっているのだという。

久し振りにバッタリ出会ってそんな話になった。

「でも、最近、少しの間、プールが出来なかったのよ」と彼女は言った。

「どうして?」

「耳に水が入って中耳炎になちゃったのよ」

「あら、大変、痛かったでしょう?」

「ええ、でも中耳炎の痛みより不快な思いをしたわ」

「えー、どうしたの?」

「駅の近くにあるО耳鼻科って知ってる?」

「知らない」

「アソコは、行かないほうがいいわよ」

「どうして?」

「この辺に耳鼻科がないからみんな仕方なくアソコに行くけど、噂にタガワズ最低だから」

「最低って?」

「先ず態度が横柄、説明が面倒臭そう、でもって、「大体直ってる」って先生が言ったから、

「もうプールに入ってもいいですか?」って聞いたら

「そんなこと人に聞かないで自分で決めろ!」って怒鳴られたの」

「何?それ?」

「何だか分からない。そういう先生なの」

「げー、ホントにサイテー」と、そんな話をした。

彼女は、主婦によくいる一つの話を長々とするタイプではない。

私の憶測だが、医者に対する質問も端的に的確にする人だと思う。

その後、違う人から、その耳鼻科の待合室で知人に出会って

「あら、あなたもココに来てるの?」と言っただけで

「あんたは、おしゃべりだ!とその医者に怒鳴られたという話を聞いた。

「それ以上は何も話していないのよ」とその人は憤慨していた。

それで思い出した。

3年程前に私の耳の中に水が入ったような違和感と頭を叩くとボヨン、ボヨンという音が

聞こえるようになったことがあった。

 母に言わせると、更年期の時期というのは全身に異常が現れるが、特に耳に異常が起き

ることが多く、耳鳴りが起きたり、耳が遠くなったり、人によっては聞こえない筈の声が

ゴヤゴヤと聞こえる人も居るのだという。

きっと更年期だよと母に言われたが、朝のシャンプーの時に水が入ったのかもしれないと

思った私は耳鼻科に行くことにした。

私は耳鼻科に行ったことがないので、ハチミツの兄ちゃん、地神様、下ネタにも出てき

た塚ちゃんに情報を聞いた。

 塚ちゃんは私より2歳年上で、頑張ってきた疲れと更年期の為に喘息になったり聴覚や

臭覚に異常が起きている。

彼女が行っているS耳鼻科という所を教えてもらった。

仕事の休みの月曜日にソコに行った。

ところが、休み明けの為か驚くほどの混み具合であった。

後で塚ちゃんに聞いたところ、何時もそのように混んでいるのだという。

 

 8時半に病院に入り、20畳ほどの待合室で3時間近く待ち、やっと診察となった。

診察室の横にはカーテンで仕切られただけのスペースがあり、そこに長いすと小さな椅子

が置かれ、第二待合室として診察直前の人が待つ仕組みになっている。

忙しい医師が効率良く患者を診る為なのだろうが、医師と患者の診察の声が丸聞こえで

あると同時に、待っている患者の声も医師には不快であろうと思う。

 そして、時間のロスがないということは、医師の精神も逼迫するのではないかと思う。

カーテンの待合室の長椅子には一人の子どもが寝転び、その横に座る母親はそれを注意せ

ず、絵本を大きく広げて子どもに「この色は何色?」などと聞いている。

その横には、座れない年寄りが立つ。

 

私は、カーテンを開けて入り、診察の椅子に座った。

「どうしたんですか?」

「はい、耳に異物感があって、頭を叩くとボヨン、ボヨンと水が入っているような音が

するんです」

「何時からですか?」

「1週間以上前からです」

「あんたねー、水が1週間以上も入っているワケないでしょう!?」

「入っているかどうか分かりません。そういう音がするので診ていただきたいんです」

耳に光を当てて覗いた医師は、

「耳垢があったけど、別に異常はなさそうだよ」と言った。

「そうですか」

「何で来たの?」

「だから、異物感があって水が入っているような音がするからです」

「だから、入ってるワケがないと言ってるでしょう!」

「分かりました。更年期で耳がおかしくなることがあると聞いたので更年期の為だと思い

ます」

「ここは、更年期の病院じゃないよ!」

「はい、分かっています。耳に異常を感じたから耳鼻科に来ただけですから。

耳に異常がないことが分かれば結構です」と椅子から立ち上がろうとすると

「どうしてココに来たの?」とまた医師が聞いた。

どうしちゃったんだろうと思った。

自分が変なのかと思った。

待合室で待っているとき、指示に従わなかったらしい70歳位の男性に向かって

「何故言うことをきかないんだ。僕はもう知らない!」と駄々っ子のように叫んでいる

医師の声が聞こえた。

 

医師もまた追い詰められているのだと思った。

英才教育と詰め込みによる学歴を取得し、医師の資格を取得する。

 時間に縛られ追い立てられ続けて医師になって、また時間に縛られ時間に追い立てられ

ながら病院に勤める。

 これは、一種の苛めではないか?と思う。

頑張ってきた人間が、能力を高めると更に次の過酷な課題が与えられる。

それが、自分の望みとペースであるならば、満足と充実感を感じるのだろうが、

一つの階段を登ると、一息つく暇もなく次の階段へと追い立てられる。

休む時間を与えられず、自分で休もうとしなかったと言われそうだが、休んで一息つい

ていたら取り残される仕組みが、日本にはある。

 

 アメリカの一流大学での話しだ。

ある時、生徒の方から美術や音楽、体育などの主要でない課目は、時間の無駄になるので

省き、主要課目の時間を増やして欲しいという要望があったという。

それを学校側が承諾した。

そして、半年も経たないで異状が表れだしたという。

授業中にフラフラと歩き回る。喧嘩が増える。ノイローゼの生徒が増える。

教師と生徒の関係も以前とはうって変わってギクシャクしたものになったという。

 慌てて以前の時間割に戻したが、生徒が元のように落ち着くまでに2・3年掛かったと

聞いた。

無駄と思われていた時間が、一番無駄でなかったようだ。

 

あれ?耳鼻科の話が、何処かに行っちゃたよ。