場外乱闘

 

 謝罪会見を載せたら、書き込みがあった。

「寿玄夢さんは、人を批判したり、自分の意見が、さも正義、のような事を文章にする

ことが多いように思われますが…。その実その人のことがわかって言っているのですか?

長男は、長男なりに、反省と責任を持って記者会見したのでは?することなすこと、人の

揚げ足を取るような文章には、ちょっとうんざり…。

 

 それを読んで、「おっ、来たかー!」と、私は思った。

それは、私も自分の書くモノに対して、エラソウなんじゃないか、正義を振りかざして

いるのではないか、自分は出来ているのか?と常に思っているからだ。

 私にこういうことを書く資格はあるのか、どれ程の生き方をしてるというのだ!?

ということは、常に私の頭から離れたことはない。

 “悩まず考える”“気にするな気を付けろ”“後悔せずに反省しろ”

“深刻にならず真剣に”など私が肝に銘じていることが多々あるが、考えた結果、

やっぱり書くことは、私の仕事なんじゃないだろうか。と思った。

 

私の行動範囲は狭い。殆どといっていいほど家の敷地内から出ない。

しかし、なのに人と会うことは非常に多い。

毎日多くの人と会い、そこで心を開いて深く話すことが多い。

私の特性は本音でしか話が出来ない。

オザナリの、その場だけ表面で付き合うことが苦手というか、出来ないのだ。

話す時は、何時でも何処でも全力投球。

きっと、私の周りに居る者や相手をする人は大変だろうな、と思う。

 なので、“来るもの拒まず、去るもの追わず”を心がけ、自分から人の所に行くことは

しない。

このホームページも、読みたい人は見て、読みたくない人は見なければいいわけで、

私的には気が楽な部分がありながら、結局、これも私の土俵内のことであって読んだ人

の本音は聞けないんじゃないかなぁ。と、思っていた。

 でも、いつかこういう書き込みが来るんじゃないかな、と思って覚悟はしていた。

 

よし! おー、ここでまた階段を登れる。と思った。

 

先ず、ちょっと説明をする。言い訳だと思う人もいるかもしれない。

“寿玄夢はじめに”を読んでもらいたいが、そこでの要点をもう一度言う。

ここに書かれていることは、どこの誰のことだとか、でも本当はこうじゃないかとか

といった入り口のところで立ち止まらずに読んで、考えて欲しい。

 そこに書いてある、内容の事実から、そこにあるテーマを見つけ出してそこから考えて

欲しいのだ。

嫌だと思うことや感じることには、必ず“知らせ”があるのだと私は思う。

だから、その表面的なところで引っかかって立ち止まらないタメに、普段は個人名や

地名、日時を書かないようにしている。

こういった有名な話でない時には、年齢や性別、スポーツ名や職業、業種も変えるこ

とにしている。

 今回の話でも、長男が頑張っていた、一生懸命やった。などということの評価もある

だろう、だが、私はそこを突き抜けて考えて欲しいと切望している。

 知らせがあった時、そこには何かテーマが潜んでいるんだと思う。

 

今の日本で騒がれている、わが子だけを守ろうとして周りを見ず、迷惑を掛け

自分勝手に他のものをやっつけるモンスターペアレンツ。

 そんなことが本当にあるのだろうか?と思っていたが、自分の身近でも起こり、実際に

そういう人と出会ったり、事実目にしたりすることで、その度に驚いている。

 まあ、昔からあったことなのだろうが、昔はそういう行為は恥知らずと見なされ普通

でないことと思われていた。

 それが、恥知らずが普通のことになりつつあるような気がしてならない。

テレビに弁護士が出ていて、幼い子供からの手紙を読んでいた。

「お父さん、働いてくれてありがとう。でも、トランプでズルをするのは止めてください」

それに対して弁護士の父が言った。

「だって、子供に負けたら尊敬されなくなっちゃうでしょ」

出来ないことを出来ないと言って、それをばかにすることは、未熟なことだ。

そして、未熟な者がいたらその者に教え育てることが教育だと思う。

知らないことは、出来ないことは、恥ずかしいことではない。

出来ないからといって、やろうとしないことが、知らないことを知ったかぶりする

ことが恥かしいことだ。

誤魔化したり、ズル、インチキをすることが、恥ずかしいことだと私は思う。

恥知らずとは、恥ずかしいことをいうのではない。

恥ずかしいことをしても恥ずかしいと思わない、恥の何たるかを知らない人のことを

恥知らずというのだと私は思っている。

 

自分の子供だけを守ろうとして、ズルをしてでも自分の子を勝たそうとする親が居る。

裏口入学は、恥ずべき違法行為であるが、我が子を入れたいエゴに歯止めが効かず金に

モノをいわせる親。

子供はその姿を見て、その親を尊敬出来るだろうか?

子供を思ってのことなのか、自分の見得のためかわからないが、インチキをする親を…。

 

何かを欲しかったら、正々堂々と頑張って手に入れたらいい。

頑張っても手に入らなかったら、潔く諦める。

諦める、事実を受け入れるということも、人間としての大事な勉強じゃないのか。

 

 私は、子供に「やれば必ず出来る」と、言ったことはなかった。

「やっても出来ないこともある。

だからといって、やらないということは、やる前から負けている。自分に負けたのだ。

そして、出来ることも大事だが、それよりもっと大事なのは、結果を求めずやることだ。

結果だけを求めて行うことは、卑しい行為だ。

結果が出なくても、精一杯、力を出すことが出来てホンモノだ。

そして、大事なことは、若し出来なかった時に、自分がどういう態度をとるかだ。

イジケルのか拗(す)ねるのか? 嫌になって、メゲて、いじけてしまうのは、

出来なかったこと以上にみっともない恥ずかしいことだ」

そう言ってシメは、歌を歌ったものだ。

♪勝った負けたと〜、騒ぐじゃないよ、後の態度がぁ、大事だよ〜♪

          いい歌だなぁ。

 

 日本には、武士道がある。

冠婚葬祭が、日本の4代儀式だが、冠とは元服、要するに成人式のことで平安時代以降

公家武家の間で行われた男子の成人式の儀式の際に冠(かんむり)を頂くことから冠と

なったという。

元服すると幼名を廃して元服名を付ける。

親子は、時期がきたら親離れ子離れをする。

親の言いなりでいることも、上げ膳据え膳も、許されない時がくる。

 何事にも時期がある。

“7歳までは神のうち”という、親、大人が手塩に掛けて教え育てる。躾(しつけ)を

する。

躾とは、仕付け(整えるために荒く縫う)糸からきており、礼儀作法、礼節を教える

ということで、マサに身を美しくするということだ。

 躾のされていない人間は美しくない。

「ちゃんと躾をしていこうぜ!」と、大人に思う。

 

でも、ここで、いつも私が思うのは、躾をされないで育てられた人間が自分を恥じる

必要はないということだ。

躾されなかったのは、自分の責任ではない。躾をすべき大人が居なかっただけだ。

誰かを責めても何も変わらない。

そして、自分が躾をされていなかったということに気が付いたら、自分で自分を育て

躾をしなければならない。

過去を悔やむな、過去を呪うな、良くなかったと思ったら自分の力と努力で変えてい

けばよいだけのことだ。

 

 しかし、人間が育つには無欲の愛情が必要だという、自分が出来ることはしよう。

でも、それを与えられない所に生まれた人間はどうしたらいいんだ!?ということが、

ずっと、私の憤りの根源だった。

 そして、一つ答えが見つかった。

人に愛を求めても与えられなかったら、自分で自分を愛せば良い。

でも、人に損得なしで愛されることのなかった人間は、自分の価値を見出せず自分を

愛することが出来ないのだという。

 もう、こうなったら兎に角、人を変えることより、自分が自ら変わるしかない。

自分で自分を育てながら、人を愛し、その上で想い(自分の哲学、思想)を伝える。

この間、ガッツ石松が“良書、良師、良友が人を育てる”と言っていたが同感だ。

更に加えて、私は“類は友を呼ぶ”と思っている。

友達が居ないときに、孤独な時間が自分を作る絶好の機会だ。

誰にも邪魔されない時に、自分が何をするかで人生が決まってくる。自分が出来てくる。

そして、自分が出来てくるとやりたいこと目標が出てくる。

そうなったら、そこに邁進(まいしん)していけばいい、すると自然と友が寄って来る。

友達に好かれるタメに迎合して群れを作ったとしても、それは本当の友達だろうか。

ありのまま、ウソのない自分になって、そこで同じ目的で共感出来る者が本当の友達、

仲間なんじゃないかと私は思う。

何事も砂上の楼閣であってはならない。

基本、土台を作らずに砂の上に立派な楼閣(お城)を作っても、必ず土台から崩れ自滅

していくことになる。

 土台を作ること、それが総ての基本となる。

土台とは何か。ウソがないということ、そこに誤魔化しがないということだ。と、思う。

誠心、誠意、精一杯。

そして、敬意。好き嫌いシガラミを越えて、人の尊厳に敬意を持ち、敬意をはらう。

 

 長男に対しての世間の評価(マスコミ)コメントに、

「まだ子供で分かっていない」という言葉があった。

だったら、教えなければならないし、子供だったら分からないことは、人の話は聞かね

ばならない。

「もう、プロなんだから自分で考えて行動する」というなら、自分の言動行動に責任を

持たねばならないし、責任を取らねばならない。

因みに責任を持った行動と責任を取るということは、違うものであることも覚えておく

べきだ。

「責任取ればいいんだろう!だから、辞めるってことが、私の答えだ」というのは、謝罪

でもなければ、責任を持った行動ではない。

 その時々に応じて、自分にとって都合の良い方を取るご都合主義は、許されない。

二股膏薬という言葉を知っているかなぁ?あっちへ、ペッタリこっちにペッタリ。

自分に都合のよい方へ張り付き、考えがコロコロ変わる人間のことをいう。

コウモリが動物と鳥が喧嘩をして、動物が優勢だと「自分は動物です」と言い、

鳥が優勢になると「やっぱり私は鳥でした」と言って誰からも相手にされなくなった。

だから今も暗い洞窟に棲んで夜のコソコソしているのだという童話があった。

 動物のコウモリを卑怯者呼ばわりするのは失礼な話だが、

 人が、人として生きる誇り(ホコリ)とは、何だろうか?

 

 これを書いているところに夫が来た。

早速、読んで聞かせた。

すると、

「あんた、そんなに気張ってて疲れない?気が休まる時があるの?」と言った。

「大丈夫だよ。休む時は休んでるし、楽しんでるから。

それに、こういうことを考えて答えを出していくことが、最高に面白いんだ。

まあ、私にとって書くというか、自分の考えをまとめていくという作業は、真剣勝負の

ボクシングと同じだな」

「あっ、そう。ところでオレ今からゴルフの練習に行くんだけど」

「あ、あたしも行く」

ってことで、それから、打ちっぱなしに行ってバカバカ打った。

 終わってから魚屋に寄って刺身を買って、家に帰って、夕方の風呂に入って、二人で

酒を飲んだ。

 次女から電話があって、書き込みを読んで聞かせた。

以前、私の言うこと為すこと書くこと、総てに文句を付けた彼女だ。

 それが、何て言ったと思う?

「良かったね、お母さん。

ようやくそういう話が出たか、私、必ずそういうことを言う人が出てくると思っていたよ。

 私も随分お母さんの言うことに反抗してきたよね。

でも、お母さんの言うことを分からない、理解出来ないっていうか、そういう人に、

そういう話をする必要があるんだと思うな。

お母さん、もう、井の中の蛙は許されなくなっているんじゃないの?」と彼女はからかう

ように言って「ヘッヘ」と笑った

へー、あんたの口からそういう言葉が出るとは思わなかったよ。 

 

ボクシングの発祥や経緯には色んな話がある。

古い話だと、奴隷を戦わせて殺し合いをさせたものもある。

その後に、二人の戦う男を人が手を繋いで取り囲んだ。それが、リング。

リングは戦う男を見守る応援する人の手なんだ。だからコーナーの棒は人の形をしている。

その場外は、一緒に本気で戦いを応援する者。どっちが勝つかに賭ける荒くれ男達。

次に戦う者セカンドが、怪我の治療やアドバイスを務め、それがセコンドになったという。

 勝つか負けるか、命を賭けた戦いの中で生まれる男同士、相手に対する敬意。尊敬の念。

でも、真剣勝負のリングの外では、賭け、いかさま、インチキ、誤魔化し、

そして“場外乱闘”が、おっ始まる。

そこにルールが出来る。ルールを守らねば自分が勝っても金が貰えぬ。

ルールから一番遠い者達が、ルールを作りそれを守ることになる。

 

場外乱闘は、本気で戦う男達の本意からは外れていたりする。

その人が、何処の部分に生きるかは、その人の能力と、意志、心による。

 まぁ、リングの上でもルールを無視して場外乱闘紛いのことをする者もいる。

 

 本当に、ホントウに、自分がそれで良いと思うんなら、仕方がない。

それが、その人の土俵、人生なんだろうね。

 

って、何をいいたいのかなぁ?ボク。

分かりまっか?