珠理5

 

 珠理の店は漫画喫茶の傍ら縫物をしている。

漫画喫茶を始めた頃に、ここは何をやってるのかと近所の農家の人が覗きに来た。

 彼女らに漫画を読む習慣のない人が多かったが、サービスだと言って出すお茶やコーヒ

ーを喜んでゆっくりしていった。

 そして、ミシンがあるのを見つけると、

「ちょっと、あんたあたしのズボンの裾縫ってくれない?」とか、

「ウチにあるある布(きれ)ぐるっと縫ってちょうだい。

たーだ四角く縫うだけでいいんだからさ」などという人が居て、最初は無報酬でやって

いたのだが、「それじゃ頼みづらいから、ちゃんと取ってよ、でも安くね」という声に

値段を決めて簡単な縫物を受けるようになった。

 

 その頃には、店の経営も落ち着いてきてバイトやパートを雇えるようになった。

だから、頼まれると店から出て行って応接椅子のカバーなどを縫うようになり、特に宣伝

したわけでもなかったが、そういった仕事が入ってくるようになっていた。

 

 その日は、カーテンが破けてしまって縫って欲しいが、レールが高い所に付いているの

で外すのが面倒臭いからミシンを持ってきてその場所で縫って欲しいという電話が入った。

 場所を聞くと車で15分もあれば行ける所であることが分かり、行くことにした。

 

 その家は振興住宅街を入って行った山際にあった。

きっと古くからあったのだろうその家は、新しい家に取り囲まれるような形になっていた。

 茶色くなった板塀からは手入れされなくなって久しい植木が見えていた。

今どき珍しい引き戸を開けて中に入ると、格子戸にガラスの玄関があった。

 横に付いていたチャイムを押すと「ピンポ−ン」でなく「ブー」という低い音が奥から

聞こえた。

 少ししてガチャガチャと鍵が開けられ、猫を抱いた60歳位の女性が居た。

「良かった、来てくださったのね」と玄関から両脇の部屋を二分するように続いている

廊下の先にある西南側と思われる場所にある応接室に通された。

 両脇にある部屋は全部ガラス戸が閉められていてそこが部屋なのか台所なのか見当が

付かない。

 そして、昼なのに暗い。

だから、応接室に入るとやたら眩しく、椅子の上に猫が居たことに暫らく気が付かなかっ

た。

 珠理は持ってきたミシンを袋から取り出し

「これを乗せるくらいのテーブルってありますか?」と聞くと、大きく伸びをしながら

猫が傍に来てミシンの匂いを嗅いだ。

「ダメよチョビちゃん。ええ、あります」と、彼女は抱いていた猫を降ろすと、何も入っ

ていない花瓶が乗っていたサイドテーブルを指差した。

「あぁ、丁度いいですね」

と、珠理は花瓶を降ろしてカーテンの横へテーブルを運んだ。

 事前に話は聞いていた。

裾の折り返しが解けてしまっているのと、猫がぶら下がって縦に裂けた部分を縫う。

 いずれも下の方なので、テーブルにミシンを乗せればレールから外さないで縫うことが

出来た。

 彼女は、「チョビちゃん、ダメよ」「カンタ、いたずらしないのよ、ほら見てごらん」

などとひっきりなしに猫に話し掛けながら珠理がミシンに糸を通したり縫ったりするのを

見ていた。

 珠理は仕事をする時は口をきかない。

そっちに気が行くと間違ってしまうからだが、仕事に集中してますから。というオーラで

居ると話さなくてもいいので気が楽だ。

「お宅は何時からやってるの?」「結婚はしてるの?」「子供さんは居るの?」という問い

に「んー、ちょっと待ってって下さい」「えぇ、まぁ」と言っていると、もう聞いてこなく

なる。

 珠理は昔、若い頃に「それを聞いてどうなるの?」と言って顰蹙(ひんしゅく)をかっ

たことがあったが、この矢鱈聞いてくる人ってのはどういう気持ちなんだろう?と考える。

 一つには、社交辞令かなと思う。

そう興味もないが間を持たせるために取り敢えず聞いてみる。話の為の話。

 そして、聞きたがりの人。何でも興味深々で聞いて情報を集める。

でも、そういう人は情報ってやつは物ごとの一面でしかなくて何の意味もないということ

を知らず、知らないもんだから分かった風にしゃべる人が多いと珠理は思っている。

 もんだから、聞きたがりの噂好きを、カァーッコ悪い!と、珠理は嫌悪している。

 

 猫と話していた彼女は、珠理に何も聞いてこなかった。

し、勿論珠理も何も聞かない。

 きっと、普通一般の人だと「古いお宅で由緒正しいんじゃないですか」だの

「何人でお住まいですか」だの「広い敷地ですね」「猫がお好きなんですね」なんてことを

言うんだろうな。と珠理は思う。

 猫抱いてあれだけ喋りかけてりゃキライな訳あんめぇに、何でツマンナイことを口に

するのかな。と、ミシンを踏みながら考える。

 今日の仕事は応接セットのカバーみたいに立体裁断だの型紙をとったりの手間がない分

仕事が簡単で気楽だ。

 猫がウロウロしてるのも、彼女の猫へのお喋りもシンと静まりかえった部屋に射しこむ

日の光と同じように心地よくミシンの音と共鳴していた。

 間に壁を挟んで1間半と2間のカーテンの直しが終わってミシンや裁縫道具を片付けて、

周りに落ちていた糸くずをコロコロで拾うと猫の毛も沢山付いてきた。

彼女は「あら、いやだ。来た時よりキレイになっちゃうわ」と言いながら

「お世話さまでした。こちらに来てどーぞ」と、紅茶を淹れた。

白地に小花模様のカップから芳しい香りが立ち上った。

 生い茂った庭を見ながら紅茶を口に含むと、

「お宅、子供さんはいらっしゃるの?」と彼女が聞いた。

「ええ」

「そう、私もいるんだけど…」

 あー、人に聞く時って自分が話したい時でもあったりするかな。とその時珠理は思った。

「そうですか」と言ったが、その先が続かない。

「…」

 

 暫らくの間があって、

「聞いてくださる?」と彼女は言った。

「はぁ」

「息子が一人居るんだけど、もう30を過ぎたのに家から出られないの」

「はぁ」

「主人を亡くしたのが10年程前になるんだけど、それからその息子と2人で暮らして

いるの。人が来ることもなくて、このカーテンももう20年は掛けたままなのよ」

「はぁ」

 

 珠理が言ったのは「はぁ」ばかりだったが、頭の中に浮かんでくる映像があった。

彼女が修道院に居た。そこで、外の世界に憧れていた。でも、一生そこから出ることは

なく恋愛をすることもなく、家庭も子を持つこともなかった。

 唯一の慰め喜びは、そこに居た猫の面倒を見ることだった。

彼女の息子も何かの塀の中で暮らす人生だった。

 囲いの中で生きた過去を持つ二人。

不特定多数の人と関わることが怖く、外に出ることが出来ず自らが自らを縛り不自由に

している。

 このままでいいのか?

良くないから彼女は苦しんでいる。彼も苦しんでいる。

 じゃ、どうしたらいいのか?

求めていたことが、“今”与えられていることに気が付いたらいい。

 そうしたら、全てが動き出す。

そんな気がした。

 

「バカみたいなことだと思っていいから、私が感じたこと聞く?」

と言って、珠理はその感じたことを話した。

「あなたは、本当に心の底から普通の人の、人間の暮らしがしたかった。

家庭を持って、子供を持って、普通の日々の暮らしを味わいたいと求めて生まれてきた。

でも、やったことがないから上手く出来ない。

 あっ、でも、それってあなただけじゃないと私思うのよ。

生まれてくるってことは、出来ないから生まれてくるんだと思うの。

 それは、誰も同じだと思う。

だけど、そこで一つだけ気が付いたら人生が変わる。そんな気がするのよ。

 それは、何かっていうと、『あー、これがやりたかったんだぁ』って気が付く。

辛いことや嫌なことでも、それがしたくて生まれてきた。

 一瞬の命だったとしても、難病で苦しむだけだったとしても。

一所懸命、心を尽くして行ったとしても、思わぬ結果が現れる。

 だけど、安心して大丈夫。それは、求めていたこと。

人間は一所懸命間違う生きもんだ。って親鸞聖人は言ってるらしいの。

 でも、そんな人間の為に神仏が控えていて救ってくださるから、安心して

安心の中で生きなさい。って。

 今、あなたは、欲しかったモノの中で生きている。

モノって言ったって物品や息子なんていう具現的なことだけじゃなくてだよ。

 勿論、息子も求めていたことなんだけど、息子のことで辛くて心を痛めるってことも

含めて求めて与えられた。息子さん自身も彼の求めに応じて生まれた。

 自分は存在していいのか。なんて考える必要なし。

生まれてきたのも、生きているのも、ここに存在するのも、自分の力じゃない大きなもの

の力によるもんなんだから、それを疑問視するのは不遜。

 そして、いくら嫌だと今の自分が思ったとしても、それを求めたのは自分だった。

ってこと」

 

 自分の言ってること、分っかるかなぁー?と、珠理は思ったが、彼女の頬に伝うものが

あった。

 それから何事もなかったように、応接セットのカバーを頼まれた。

型紙を取り、仮縫いをしてきて合わせ、本縫いをして納める。

 なもんで、珠理はその後、その家に、計3回通った。

 

 1回目は、玄関周りが片付いていた。

2回目は、左の部屋の雨戸が開いたのか廊下が明るくなっていた。

 3回目は、部屋から男の子という感じの息子が顔を出して挨拶した。