あげ足

 

 仕方ない。

こういうことを言う自分って、ウルサクテ自分でも嫌いなんだけど、書いちゃおう。

 この間、「人智を尽くして天命を待つ」って、テレビで言っててフリップにも出ていた。

そして、「他力本願で生きてるような人は、ロクなことにならない」と、その人は言った。

 

人智ってのは、人間の智恵のことで、人智の及ぶところでない。なんていうけど、

「“人事”を尽くして天命を待つ」が正しいべ。

意味は、「人間として出来るだけのことをして、あとは運命に任せる」と辞書にあって、

広辞苑には「人間として出来るかぎりのことをして、その上は天命に任せて心を労しない」

とあった。

 

 “他力本願”という言葉は、世間一般で人の力をあてにして自分は努力しないという

ような意味で使われているけど、本来は仏教用語で、自分の力だけで生きているんじゃな

くて、他力によって生かされている。

 自分の努力は勿論のことで、その努力頑張りも他力があってのことだ、という意味だ。

 

 なーんて、あげ足を取るっていうんですか、何かにつけて文句が出てくるんだ。

っていうと、「麻子さんとは、安心して話が出来ない」なんて言われてしまいそうなんで

すが、こーれが、自分も間違いが多い多い。

 前に書いた気がするんだけど、「画竜点睛(がりょうてんせい)を欠くべからず」の

点睛の睛(せい)の字を20歳半ばまで、晴(は)れの字を書いてたんですよぉー。

 この諺(ことわざ)は、私の座右の銘の一つだとノタマイ、点睛がただの瞳でなく

魂のことだ!なんて大声で語っていた私が、睛を晴と書いていたんですね。

私の字が汚いからミンナ間違いに気が付かなかったんだなぁ。

 裏の中にある里は田の下に衣を書いてて、表裏一体(ひょうりいったい)の裏(り)

なんて、里が入ってなかったら(り)と読まないやね。

睡眠の睡も、郵の字も、長いこと垂の横棒が一本多くて通してきてたし。

 

 実をいうと“他力本願”も、忘れもしない一番下の従兄弟が結婚する時だから

1998年に違う従兄弟が「ウチは他力本願の宗派なんですよ」って言うのを聞いて

「げー、サイテイの宗派だね」って言ったのを覚えてる。

 つうことは、その時は他力本願の意味が分かっていなかったってことだね。

って、今だって分かっていないんだろうけど。

 2001年に死ぬ目にあって、その前から歎異抄は読んではいたんだけど、

2004年に“浄土は恋しからず候”って本を読んで、近くに親鸞聖人の寺があるのを

知って、その後だかんね、他力本願の意味を知ったのは。

 あーあ、偉そうに人のあげ足を取る自分が恥ずかしい。

 

 ついこの間は、「袖(そで)摺(す)りあうも他生の縁」にぶつかった。

大分前に師匠と話していて、

「他生というのは、他に生きた時ということで、その時の縁で繋がっているということ

なのに、袖が摺りあうのも多少の縁があると思っている人が多いですね」と私が言うと、

師匠は、「そうですね、そして摺りあうという言葉にも深い意味があるんですよ。

摺るっていうのはスリバチの中で摺りあわされたような、深い縁で結ばれているってこと

で、ただすれ違う時に袖がすれあうというよりもっと深い意味があるんです」と言った。

 

 実は、30年前の私も「袖すり合うも“タショウ”の縁」の“タショウ”を

“多少”だと思っていて、袖すりあうのも多少の縁があるという意味だと思っていた。

それが、袖をすり合わせるのは他生(前世や来世の時)や、多生で(何度も多々

生まれた時)の縁によるものだ。という意味だと知った時、心底感心したもんだ。

 感心してるもんだから、最近読んだ本に「袖“振り合う”も他生の縁というから」と

書いてあるのを見て(あれれー?)となったわけ。

“摺(す)りあう”が、“振(ふ)り合う”では違ってしまうじゃないか!と思った。

 

 でぇ、「これはどうなんだ?」と周りに人に聞いてまわった。

そこでは“袖すりあう”派が、多数だったが、

塚石が「でも、あの“竹内まりあ”が、朝の連ドラの主題歌で『袖振り合う』って歌っ

てるよ。天下のあの番組で、あの竹内が、毎朝、バンバン歌ってるんだよ」と言うでは

ないか!

 

そこで、辞書で調べた結果。

 

ことわざ辞典、日東書院

<袖すり合うも他生の縁> 

この世に、同じ時期に生を同じうするだけでも因縁なのに、たまたま道ですれちがって

袖がふれたとなれば、それは前世からの深い因縁によることである。

ちょっとしたことでもみな因縁があればこそである。

参、袖振り合うも他生の縁。袖の振り合わせも他生の縁。袖の振り合い他生の縁。

躓(つまづ)く石も縁の端。一村雨の雨宿り。一樹の蔭一河の流も他生の縁。

<袖の振合わせも五百生の機縁>

道で知らない人と袖がふれ合うようなちょっとしたことでも、深い因縁によることで

ある。五百生は、何回も何回も生まれ変わることで、何万年もの長い間のたった一度の

偶然の振合いで、その因縁の深さは測りようがないほどである。

 

小学生のことわざ辞典

<袖振り合うも他生(多生)の縁>学研

人と人とがちょっと知り合ったり、かかわりをもったりするのも、その人が生まれて

くる前からのめぐり合わせによるものだ、ということ。

「袖振り合う」は道を歩いていて、知らない人ときもののそでがちょっとふれ合うような、

わずかなかかわり、といういみ。「他生の縁」は人がなんども生まれかわるという仏教の

教えから、人が生まれてくる前にいた世界からのめぐり合わせ、という意味。

 

岩波ことわざ辞典

<袖振り合うも他生の縁>

袖の振り合わせも他生の縁 袖の振り合うも他生の縁 袖振り合わすも他生の縁

ちょっとした人との交わりも、単なる偶然によるものではなく、深い宿縁から生じて

いるということ。

「他生」は前世あるいは来世の意。「たしょう」は「多生」とも書かれるが、その場合は、

何度もこの世に生まれかわる意。現代では同音の「多少」と間違えやすいが、仏教観に

基づくことわざである。道を歩いている時に見知らぬ人と袖が触れたくらいのささいな

ことでも、それは前世からの因縁によるという意から。往来と言えばもともとは旅の

道中の起こったことに発しているのであろう。室町時代の御伽草子『蛤の草紙』に

「なさけなき人かな。物の行ゑをよく聞き給え。袖のふり合わせも他生の縁と聞くぞかし」

江戸初期の仮名草子『竹斎』(巻上)に「一樹の蔭(かげ)、一河(いちが)の流れ、

道行き袖の触れ合わせも、五百生の機縁」とある。

また上掲の異表現意外にもいろいろな言い回しがあり、近代では、「袖すりあうも他生

の縁」もある。上方系のいろはカルタに彩られ、絵札は若い男女のすれ違う場面を描く

ものがほとんどだったので、ともすれば「縁」を男女のものに限定する傾向がみられた。

 

標準国語辞典 旺文社

<袖振り合うも他生の縁>

 ちょっとした出来事もすべて前世からの因縁からのよるというたとえ。

 

広辞苑

<袖振り合うも他生の縁>

(振り合うは、互いに触れる、または互いに振るの意「他生」は「多生」とも書く)

道行く知らぬ人と袖が触れ合うことでさえ宿縁による。すなわち、ちょっとした出来事も

すべて宿生の因縁によるという意。

 

 ねぇ、私ってしつこいよね。

そこで考えたことも沢山あるんだけど、もー面倒臭くなったから、オワリ。

 

 どーよ、今年の抱負で言葉の壁にぶつかってその先に進まなくならないようにって

言ってた人が、ウルサ過ぎない。

 

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