太宰 治

 

 “はねるのとびら”を見ていると、夫が「おい、あんたの好きな太宰治やってるぞ」と

言ってきた。

「ん、アリガト」と言ったが、そのまま“はねとび”を見る。

もう、1年近く前になる“翼状片”という眼に出来た脂肪を取る為に2泊入院した。

その手術の終わった晩、安堵と開放感に包まれてこの番組を見ていたことを、

“はねるのとびら”を見る度に必ず思い出す。

 

 翌日、「太宰治って、凄い家に住んでたんだな」と夫が感心している。

「うん、そうみたいだね」

「屋敷の敷地面積が400坪だって、それが豪邸で、で以って、頭も良かったんだな」

「そう、地元の学校でトップだったみたいだね」

「東大出てんだぞ」

「そうだっけか」

「夕べやってたの、見なかったのか?」

「うん、お笑い見てた」

「あんたも分かんない人だね。太宰治のこと好きだから、てっきり見たのかと思った」

「うん、昨日はお笑いの方が良かったの」

 太宰の生誕100年とかで、新聞やテレビで太宰特集が組まれている。

 

本好きの私は、小学校で世界の名作全集という本を全巻手に入れ何度も読んでいて、

その中の日本文学の中に森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、二葉亭四迷、宮沢賢治、

佐々木邦、菊池寛、下村湖人、山本有三、などの書いたものがあったが、その中に

太宰はなかった。

 

私は、人が金持ちだろうが貧乏だろうが、有名だろうが、頭が良かろうが悪かろうが

美醜のどちらかだろうが、意に介さないというか、ど−でもいい。

中学の時のクラスに背が高くて個性的な顔立ちのマリがいた。

成績はクラスでラストの方で、みんなマリをバカにしている感じだった。

私は誰かと特別親しくなるということもなければ、仲の悪い人というのも居なかった。

そんな私にマリが話しかけてきた。

「麻子ちゃん、この本読んだことある?」

それは、太宰治の“人間失格”だった。

「ない」

「じゃ、読んでみなよ。面白いよ」

 マリが貸してくれたその本は、その日のうちに一気に読んだ。

衝撃だった。

 単行本の小さなその本は、私の何かを開いた。

それまでで一番感銘を受けていたのは、下村湖人の“次郎物語”と山本有三の“路傍の石”

だったが、太宰は、私の違う扉を開いた。

 太宰は中学の時に井伏鱒二の“山椒魚”を読んでその天才に興奮し、後に師とするが

遺書には「井伏さんは悪人です」とあったらしい。

“山椒魚”は井伏本人の手によって何度か書き直されているらしいが、中学の頃に

出合う本というのは特別な気がする。

 マリは兄の持っていたその本を読んで面白かったので、誰かに勧めたくて私を選んだ

らしい。

興奮した二人は、その感想を話し合った。

他の人にもその本を勧めたが「難しくて分かんない」と読むことを面倒がられ、

私は、成績の良し悪しで人を判断していないつもりでいたが、やっぱり先入観を

持っていたことに気が付いた。

 と、同時に物事を深く考えることと勉学成績は同じでないということにも気が付いた。

人間失格の単行本はすぐに買い、何度読み返してきたことか。

 でも、その他の作品についての内容や感想も、言葉にした途端別のものになる気がする。

 

 言葉って何だろうと思う。

ここにあるモヤモヤとした、でも明らかにある何かを言葉にすると、それは確かなモノと

なっていく。

 だけど、言葉にした途端、そこから滑り落ちていくモノを感じる。

こうして書くという作業も取捨選択して残った言葉によって存在する。

 だけど、いらないとして消えたモノにこそ大事なことがある気がしてならない。

 

 色んな人が、色んな太宰を語る。

1909年6月19日、生まれ

1948年6月13日の金曜日、没

     6月19日、遺体が発見される。

 

 そして、今日、2009年6月19日、金曜日

 

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