電話 (1997年)

 

 夜中にかかってきた、電話。

眠りについた私を、現実の闇の中へと引っ張り出すベルの音。

 夜中にかかってきても気が付くように、最大にしてあるベルの音。

 

電話から聞こえてきた、あなたの声。

聞きたかった、あなたの声。

 少し電話がこないと、あなたの声が思い出せなくなる。

あんなに当たり前に居たあなたが、今、ここに居ない。

「もしもし」

そう、この声。

『こっちは何時だと思っているの?』という言葉を飲み込んで。

「元気?」と、ありきたりの会話が始まる。

 

 そして、言葉が行き違い、気持ちが届かない、通じないもどかしさの先に、

沈黙がやってきて、電話が切られる。

 電話が切れた瞬間、込み上げてくるあなたへの愛しさ。

毎日何をしている? ちゃんとゴハンは食べてる?

気持ちの通じる友達は出来た?

切った瞬間に、聞きたかったことが溢れ出す。

今すぐ、もう一度、あなたの声が聞きたい。

受話器に額を押し付けて、泣いた。

  

 これは、1997年の日記だ。

これを読んで、どう思ったかな。

 好きな男からの電話と思った人も居るんじゃないかな。

 

 実は、これは高校を卒業すると同時にハワイに語学留学した長女からの電話。

時差があるため夜中に掛かってくることが多かった。

私は、思うに、きっと本当の恋愛をしたことがないと思う。

本気で誰かを好きになったり、身を焦がすような想いをしたことがない。

結婚もしないならしないでいいような気がしていたし、子供も居ないなら居ないで

いいと思っていた。

 それが、夫との縁が結ばれ、あーあ、こうなることに決まってたんだよなぁ。と

いう感じで、そこからはお互いに呉越同州(ごえつどうしゅう)、なるべくして夫婦に

なり紆余曲折(うよきょくせつ)切磋琢磨(せっさたくま)。って、熟語にすると簡単。

 結婚して人生が変わったって話はよく聞くけど、あーあ、私もご他聞に漏れず、

いろんな感情にスイッチが入った。

そして、人を想う苦しさを知った。

それは、何によってかというと子供によってだ。

守りたい亡くしたくないモノが出来るって凄いことだ。

それは、「どうなってもいい」という気持ちで生きてきた私が子供という守りたい存在

(人質)が出来たことで生活が一変する。

まあ、見た目の生活は変わっていないように見えても、気持ちがすっかり違ってしま

った。

 

 私は、冷たい人間なんだろうか、何でもダメならダメで仕方がない。

何か困ったことが起きても、それは自業自得、なるべくして起きるのだから自分で始末

つけたらいいだろうと思ってきた。

 何か起きたら、それは例え死んだとしてもその時はその時、って車はガンガン飛ばす、

明日の健康より今日の楽しさ面白さが優先。自分さえ楽しければいいみたいなトコが

あった。

仕事大好きの私は、仕事に心を込めないなんてことはなかったが、こと恋愛に関しては

ゲーム感覚だった。

誓って人の心をオモチャにすることはしなかったが、恋愛は生活の楽しいオマケみた

いな気持ちでいた。

 別れ話をした人が、電話で泣いたり、待ち伏せしているのを見て、この人たちは

ポーズでやっているのか、それとも意地になっているのか、などとその時は思っていた。

 それは自分の感情にフタをしていたのかもしれないが、私に男に対してはヤキモチと

いう感覚はなくて、私の気分が損なわれたらオワリにするだけのことだった。

 

 それが、長女を産んで、女の子2人産むと決めていたというか(これは、望んでいた

んじゃないんだよなぁ)それは、決まっていた気がしていたのに、その妊娠を知った時

あれは、マタニティブルーだったのか長女一人だけを育てたいという思いに支配された。

 そこにあったのは、長女に淋しい思いはさせたくないという感情だった。

私は二人姉妹で、妹が出来た時どうしようもない淋しさを味わった。

 それを長女には味合わせたくないと思った。

それは、鬱状態(うつじょうたい)のようになり、自分の中にこういう感情があると

知った一回目だった。

 

私の嫉妬と支配欲は大人になるに連れて形を変え、封印され上手に変化させることの

出来るものになっていた“つもり”でいた。

 羨ましいという感情も、コントロール出来る“つもり”でいた。

私は私で、私以外の何物でもない。ありのままの自分で、自分に出来ることとやりたい

ことをやっていったらそれでいいんだ。と思っていた。

 それが、次女も産んでしまえば、掛け替えのない宝物となり、足かせとなった。

子供を持つということは、私が嫌ってきた客観性を欠くことであり、私利私欲の塊で

ありながら私利私欲から一番遠いことだった。

 

 1996年に次女が高校1年で中退していた。

1997年の春、高校を卒業した長女がハワイに行くことになったのを期に、次女も東京

のアパートを借りて一人暮らしをさせることにした。

 3月の末、二人は身の回りの物を詰めたスーツケースを持って家を出ることになった。

心配性の私は、ホッとしていた。

 子供は達者で留守がいい。見えない所で躓(つまづ)いて転んで、立ち上がって育っ

てくれ、もう、これからは自分で考えて判断し、自分の力でやっていくんだ。

 金銭的に援助しても、親元を離れるということはそういうことだ。私が傍に居ては

二人は自立出来ないと分かっていた。

成田まで夫の車で二人を送って行き、そこで子供たちは飛行機と電車に乗る。

何時も一緒だった家族が、初めてバラバラになる。

 家から出たいといい続けていた次女だが、さすがに不安なのか口数が少ない。

この次女にも気が付かないできた感情を掘り起こされ続けてきている。

 

毎日のようにお客が来ていた一階の24畳のワンルーム。

居住空間のある二階に、お湯の使い方で注意し続けてきた風呂がある。

子供たちの友達を泊めた和室。母の部屋。父の部屋。ベランダ。長女の部屋。次女の

部屋。長女が高校の夏休み、毎日のように料理をした台所。

私が台所に立って目の前に広がる田んぼとその向こうにある林を見ていると、愛おしそ

うに家中を見て回っていた長女が横に来た。

長女は、台所のシンクを撫でながら「もう、この家ともお別れなんだね」

「この台所は大好きだった」と過去形で言い、

「これ、持っていけないから、お母さんにあげるよ。お母さんこの色好きだよね」と、

友達にプレゼントされたというブルーのガラス球が付いた花瓶を持ってきた。

 その瞬間、私は悲しさでイッパイになったが、その悲しさは説明のつかない感情へと

変わった。

「あー、その花瓶ウチでも売ったけど180円だったよ。他所で買ったのかな、他所では

980円位で売ってる。ウチで買えばいいのに」

 我ながら、何を言っているのかと思った。

「なんでそんなこと言うかなぁ」と長女は悲しそうに言った。

 後悔ともつかぬ怒りなのか悲しみなのか分からない感情から、口を開くと涙がこぼれ

そうで、私は知らん顔して歯を食いしばった。

 

 長女は、頑固な所もあるが、周りの誰にも気を遣う。

それぞれの好みを気に留めていて、それを与えたがる。

 執着心が強いのに、アッサリと捨てる時もあげる時も惜しげない。

 

長女が結婚した時、ちょっとザマーミロって思った。

親兄妹でない大事な人が出来るってことは、神様に人質を取られるってこと。

 自分を大事にせざるをえなくなり、頭だけで考えては説明のつかない感情が出てくる。

そして、それを味わうことになる。

 見ると聞くとは大違い。なんていうけど“冷暖自知(れいだんじち)”水が温かいか

冷たいかは飲んだ本人にしか分からないという。

禅宗で、悟りは自分で体得する意外に知る方法はないという。

最近の長女の悟りは、「お母さんって、思ったより料理下手じゃなかった」ことだそうだ。

「毎日家事をするってスゴイことだったんだね。それでもって、健康のこと考えて料理

して、毎日このレベルで作れるなんてスゴイってことが分かった」ことが彼女にとって

スゴイ発見なんだそうだ。

 

 この間の皆既日食の時、私は何かがおかしくなって二階で横になっていた。

すると、下から「オカーサン、オカーサーン」と呼ぶ声が。

窓から覗くと「皆既日食が見えるよ、早く降りておいでよー」と娘達が叫んでいた。

外に出ると白い雲が別れ、白い三日月みたいな太陽が見えていた。

その時テレビで生中継している日食を見ていたが、現実に、今起きている日食が、

目の前に、あった。

太古の昔から人々が神と崇め、見つめ続けてきた太陽と月。

テレビで騒いでいるそれも、今ここに見えているこれも同じ一つのモノなんだなぁ。

 神様も太陽も月も、その他の何もかも総て、自分のモノであって自分のモノじゃない。

誰ものモノでもあって、誰のモノでもないんだなぁ。

 なんて考えたら、涙が出そうになった。

 

 7月29日は、長女の31歳の誕生日。

で、思い出した電話の話。でした。

 

 

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