泥の中の神様

 

「泥の中の神様ってどういうこと?」と聞く人あり。

そっかぁ、分からないか。そうだよなぁ、それって私が作りだした言葉かもしれないん

だから。

 

仏の言葉に

「泥中に在りて花咲く蓮の花、泥中に在れど花咲く蓮の花、泥中に在れば花咲く蓮の花」

というのがある。

黒い泥の中で、キレイに蓮の花が咲いている。

黒い泥の中にあっても、汚れもせずにさいている。

いや、泥の中にあるからこそ、蓮は咲くんだ。というような意味だと思う。

そして、蓮の花が自分だとしたら、泥は神様じゃないかと私は思う。

 

蓮はどうしてあんなに色んな色があると思いますか?と住職さんに聞かれたことがある。

どうしてだろうか?と考えたが分からなかった。

すると、「これは、色々ある中の一つの答えですが」と住職が話したのが、

自分とは違う色があることで、自分の色を知る。

自分一人では自分を知ることが出来ないが、違う存在を観ることで自分が観えて来る。

という、その話は、

歌を歌う人が、「私は風だ、自分の身体は自分で観えない。

聞く人は洗濯物だ。私が歌うと洗濯物が揺れる。

洗濯物が喜んだり、感動したり、軽やかに乾いて行くのを感じた時、

私は、私の存在を初めて感じることが出来る」と言っていたのを思い出した。

 

神は、貧しき者、弱き者、幼き者の中にこそ居られる。という。

麦踏が、麦の真上を踏まれて地に足が付き根を張るように、物事、存在の本質は、

それ(美しいとされるモノ)だけを別にすることは出来ない。

 

 日常の中で、美しくないモノがある。

恨み、嫉妬、憎悪、妬(ねた)み、嫉(そね)み、劣等感、…。

 それらの感情は、支配や押し付け、張り合い、戦いという行動と発展していく。

 

 それは、なければいいことだろうか。

いや、在るという事は食べる事の出来ない泥と同じでそこに神が居られるのではないだ

ろうか。と私は思う。

 その諍(いさか)いの苦しみこそが、人を育てる麦踏。

嫌が応でも人は踏まれ、自分でも踏み、自らの中にある自然(じねん)の力によって根を

張って行く。

 

この自然の力についてはルソーが書いていて、もう時間がなくなったので、次の機会に

しよう。

 じゃ、仕事、行って来る。

 

 

 

 

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