下痢

 麻子の店には仕事柄 銀行の外回り方が不特定多数来る。 

そう金がある訳でもないのだが、週に二回定期的に来る銀行があり、

月に一度だけ積み立てを集金に来るところも何件かあり、

その他に飛び込みで来たりするので、その度に顔見知りになる。

 銀行の外回りの担当区域は、何年かで替わる仕組みになっているので関わりを持った

銀行員の数は、ここ二十数年で相当な数になる。

 たっちゃんは、その中でも記憶に残る人になった。

なんとかたつおといったが、方向音痴であると同時にどうしても名前を覚えることの

出来ない麻子はすべての人や方に愛称や呼び名をつけることでなんとか記憶にインプット

しているのだが、やっぱりその苗字は覚えていない。

 たっちゃんは、いい男であった。

背が高く顔もちょっとアイドル系の甘いマスクで人なつこく、その上仕事もやり手で、

きっとこいつは出世するぞと麻子は思ったものだ。         

しかし、麻子は大した苦労もなく胸を張って明るく前向きに生きてるように見えるよう

な奴というのが好きでなく、可愛く思えない。

そのくせ苦労につぶされてしまって、いじけて世を恨んでいるようなやつは、

もっと好きになれないのだから厄介な性格だ。

たっちゃんは、なかなか強引だった。

何の恐れもなく「定期つき合ってくださいよお」と言ってくる。

その言い方は、かわいげがありながらも、したたかな感じで、人をくったような印象を

受けた。

しかし、何を言っても、はっきり断っても傷つかないような安心感を彼に感じていた

麻子は、言いたい放題を言っていた。

 

 その年の暮れ、世はバブル景気にざわめいていた。

例によってたっちゃんが、足繁く店に顔を見せ始め

「ボーナス、積んで下さいよお」攻撃が、始まった。

「家に ボーナスはない」と言うと

「何とかお願いしますよ。助けてください」という。

それを聞きながら麻子は、(こいつは自分が可愛いことに気がついていて、その上人を疑わ

ないで擦り寄ることで敵を作らず、それどころか味方につける方法を知っているな)と

思った。

それは、雀が猟師の懐に飛び込んだら撃たれない、という言葉を思い出させた。

なぜだか意地になって「あんただったら、よそでいくらでも仕事とれるよ」

と何度顔を出しても放っておいた。

それでもめげずに来ては、明るく話して帰っていく姿を見ているうちに、麻子は少し

彼を見直し始めていた。

そんなある日だった。 

またも元気に現れた彼が

「いやー時計が動かなくなっちゃって、参っちゃいましたよ」と言ってきた。

「どうしたの?」と麻子が聞くと

「今年ももう残りわずかだし、彼女と忘年会をやろうってことで飲みに行ったんですよ」

と言う。

なになに、彼女がいたのか、と珍しく急に興味が沸いてきた。

そんな気持ちはおくびにも出さず

「ふーん それで・・」とさり気なく話を促した。

「僕も彼女もお酒が好きでよく飲むんですけど。

そういう訳で二三日前に飲みに行ったんですよ。そしたら、二人とも疲れが溜まってたん

ですかねえ、飲むペースが速くなっちゃって。

何軒かはしごしちゃって、いきつけのスナックに入った時なんですけど、

彼女がトイレから蒼い顔して出てきて「大変なことになった」って言うんですよ。

彼女に引っ張られてトイレに行ったら、もーう、トイレにゲロが詰まってまさに溢れる

ところ、これは大変だと思ったら、もー手を突っ込んでいてかき回しちゃったんですよ。

どうにか、袖はまくったんですけど、時計までは気が回らなくてゲロまみれ。

それから動かないんですよ、時計」

「それで大丈夫だったの?」ってなにが大丈夫なのか、トイレなのか彼女なのか…。

「ええ、思いっきりかき回したら、ゴボっていってザーって流れて」

「それは、よかったね」とちょっとすごい話を、淡々と話す。

「よし、定期一つ入ろうか!

「えー、いいんですかあー」と言った彼は、もうすでに仕事の体制になっていた。

麻子のことを知らない人は、なぜここで急に定期預金に入ったか分からないだろう。

麻子にはいろいろなルールがある。

その一つが 媚たりおべっかやお世辞を言うやつのいうことはきかない。

しかし、麻子を駆け引きなしで楽しませたり面白がらせてくれたら、

その礼としていうことをきくことにしているのだ。

 

その頃、新聞で読んだ投書だったか・・・の話である。

婚約し、結婚式場も決まり招待状も出した二人が、用事があって高速バスに乗った。

彼女は、腹が弱い体質だった。その日も朝から、腹の様子があやしかったが、

高速バスにはトイレがついているからと、彼女はそれを頼りにして乗った。

しかし、その日のバスのトイレは、何の都合によってなのか、

“都合により使用不可”であった。

たった二時間弱の我慢である。なんとかなるだろう。と彼女は決死の覚悟で、

彼と共にバスに乗った。

乗る前に何度もトイレに行き、万全を整えたつもりであったのだが、

やはり一時間もしないで腹が痛くなりだした。 

腹が弱いことに於いては、人後に落ちない麻子に、この時の気持ちは分かりすぎる程

よく分かった。

腹の痛みと共に孤独と絶望が襲う。悪寒と脂汗と冷や汗、肛門は爆発寸前。

いっそこの世が爆発してくれたら・・・とさえ思う。

まだ漏らしたことはないが、野糞は何度したことか。

それは決して慣れることはなく、断崖絶壁に立つ気持ちである。

その時、彼女はぎりぎりまで我慢した。

しかし、どうしようもない状態になってきた。

その頃になると歩くことも困難な状態になっていたという。

そして彼に、最寄りのトイレで車を止めてくれるよう、運転手さんに頼んで欲しいと

頼んだ。

すると彼は、「恥ずかしいから嫌だ」と言ったという。

彼女は、彼がとった最後部の座席から、必死のおもいで運転席まで一人で行き、

なんとかトイレを見つけて止めてもらい、事なきを得たという。

彼女は、帰ってからすぐに婚約を破棄したという。

残念だったねという人もいるだろう。

そういうことがなければ二人の仲は壊れなかったのに・・・と。

でも麻子は、そのことがあって良かったと思う。

なぜなら、腹が弱いという、彼女の弱さも欠点も引っくるめて愛し、

そして守ってくれる人でなければ、彼女の本当の幸せはないと思うからだ。

 

 ちなみに麻子の夫は婚約時代から、何処へいっても便所捜し当番だった。

ドライブの途中に 建設途中だった建物の裏の林で野糞をした時は、見張りをつとめた。

その後そこに高校が出来たのだが、麻子の夫は、そこを野糞高校とよぶ。

ゴルフも、麻子は何時なんどきお腹が痛くなるか不安なので夫と二人で行くことにして

いる。

お陰様で三回程見張りをしてもらった。なにしろ腹痛下痢にかけては筋金入りなのだ。

何かおかしいのではないかと検査をしたことが何度もあるが、どうも体質のようである。  

この腹の為に麻子は旅行嫌いになった。

そして、いくら食べても太れない。「これは ちょっといいかも・」と思う。

でもこの苦しさと孤独は、味わった人にしか分からない。

お釈迦様も下痢で苦しまれたことがあると聞く。  

下痢に限らず 苦しいときに 損得なしで助けてくれる人が、どんなに有り難いことか・・・

麻子ののろけ話かと思う人もいるかもしれないが、ちがーんだ。

って何がちがーのかっていうと、

麻子夫婦は、気持ちのくい違いや誤解、意地の張り合いやわがままやらで、

けんかが絶えない。

きっと、普通の人だったらびっくりするようなけんかをやってきた。

決して和気あいあいで、愛し合って助け合ってるなんて感じの夫婦ではない。

しかし、麻子が望む家族や人とのつながりの理想は、人目には良く見えようが、悪く見え

ようが関係ないのだ。

麻子が本当に欲しいものはウソ偽りがなく、言いたいことを言える遠慮のない関係で、

いざというときには頼りになって助け合える、信頼と安心だけがあればいいと思っている。

だけど、いざというときなどというのは、そうそうあるものではない。

そのいざというときに、知らん顔したり 自分の見栄を優先して見殺しにするなど

もってのほか、言語道断、お話の他だ。 

そういうことをする人というのは、好きな人だからといってやさしくして、

嫌いな人には冷たくするような、身勝手な意識の持ち主の気がする。

愛しているからといって贔屓(ひいき)するような人は、愛が冷めたとき意地悪をする

様な気がして怖い。

 結局は麻子ののろけかな。

麻子夫婦は、どんなに仲が良いときでも、相手の言うことやしていることを、

考えずに同意するということもなければ、

けんかをしていたり機嫌が悪いからといって 腹いせで相手のいうことに賛同しない

などということもない。

だから、ものすごいけんかも長続きしない。

話しかけられれば、返事をし親身になって考えるからだ。

けんかをしているからと返事をしなかったり 頼まれたことをしないなどというような、

腹いせをするということは、二人にとってこれ以上恥ずかしい行為はないのだ。

だから、けんかをしている時の方がよく話しを聞いたりする。

その結果、けんかはそう長く続かないのだ。 

 そんな話を、たっちゃんにして 

「彼女が、高速バスでお腹が痛くなったらどうする?」と聞いてみた。 

「えー僕だったら、僕が、お腹が痛くなったことにしてバスを止めてもらって、

彼女を連れてトイレに行きますよ」と言った。

たっちゃんの演技する姿が目に浮かんだ。

(あー、これでまた、たっちゃんの株がグッと上がってしまったぞ)と麻子は思った。

 

あわただしかった師走が過ぎ、新しい年がやってきた。

新年の挨拶に来たたっちゃんが、にこにこして話し始めた。

「今年の大晦日から正月は、また大変でしたよ」

「なにが?」

「大晦日にまた彼女と飲んで、遅くなっちゃって、もう僕の所に泊まっちゃえばってこと

になったんですけど僕、実家に居るんですね」

「へえ、あんた、親と暮らしてんだ」

「そーなんですよ。それで僕の部屋は二階の奥なんですね。

もうみんな寝ちゃってるからって、こっそり部屋に入ったまではよかったんですけど、

いざ寝るだんになったら、彼女が「おえっ!おえっ!」って始まっちゃって…」

「またかい!?」

「はい、それに、便所が一階にしかなくて、便所に行くのには親の部屋の前通らなきゃな

んないんですよ。

だから風呂場から洗面器持ってきて、ゲロがはねないようにテッシュ敷いたりして…。

もう、その後は面倒くさいからそのまま寝ちゃったんですよ。でも臭いし、

窓開ければ寒いし、もう大変でしたよ。今年はげろと一緒に年越しでした。」  

と、あっさり話す彼に、麻子はいろいろな意味で感心しながら、正月にゴミ収集車が来な

いのは大変不便であるといった話になった。

彼女については なにも聞かなかった。想像するほうが楽しかったから。

 その年の春 たっちゃんは移動になった。

ご栄転だったのか 左遷だったのか はたまた ただの移動だったのか・・・。

と、麻子は思った。

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