電車(ゲッカマン)

「お前んとこで、電車置くか?」

「はあ?電車?」

「そう、電車だよ」

「何で?」

「何でってお前、置くか?って聞いてんだよ」

「どうして?」

「どうしてって客寄せになんだろうがよ」

 

僕は、小さな蕎麦屋をやっている。

精神的に参ってしまった時期があって、脱サラして親の百姓を手伝おうかと思ったのだが、

やってみたら、何と肉体的にも軟弱であることが判明した。

趣味でやっていた蕎麦打ちを、職業として生業にすることにしたのは、幼馴染の六ちゃん

の強い勧めと助けがあってのことだった。

 嫁に行った姉の栄養士の名義を借りて、土地だけは広い親の敷地に小さな蕎麦屋を作っ

た。それを建てたのは大工の六ちゃんだ。

 六ちゃんは、めちゃくちゃ面白い奴なんだが、その話はまたにしよう。

 

「お前の店、味はいいのにパッとしねえよな。

それって、何か特徴がねえから駄目なんじゃねえのか?

今の時代宣伝が大事なんだよ、電車でも置いてみろよ話の種になっからよ」

そう六ちゃんが言って、紹介してくれたのが、建設会社の社長である熊田さんだった。

熊田さんは、面倒見が良くて、若いもんを沢山使っている。

それは、ちょっといわくつきの人間が多い。

以前は、そういう人たちを自宅に出入りさせていたのだが、家族に嫌がられ会社の車置き

場に廃棄処分になった電車を置いて、彼らを寝泊りさせているのだという。

「なっ、お前一回そこの電車、見に行ってみねえか?」そう六ちゃんに言われて、

電車を見に行ったのは、1991年の秋のことだった。

六ちゃんの案内で連れていかれたそこは、山を切り崩した赤土の間に四トントラックや

ブルドーザーが停められ、その奥の原っぱに電車は置かれてあった。

そこに社長の熊田さんが、待っていた。

その年還暦を迎えたという社長だが、いやいやその色艶は、当時四十歳になったばかりの

僕だったが、こりゃ完全に負けてると思った。

ライオンだったら、年老いてますます盛んでハーレムを牛耳っているドンって感じだ。

「どうぞ、入って見てください」と社長は言ったが、

電車の中には生きのいい若者が寝ていたり雑誌を見ていたりした。

「いや、申し訳ないから」と僕は言ったが、社長は振り向き、一転してドスの利いた声で

「オイ、お客さんだ!」と言った。

布団に寝ていた者は、もぞもぞと起き、寝そべって雑誌を見ていた者も起き上がり

「あっ、どうも」と頭を下げた。

若い男たちの肩は、筋肉が盛り上がり黒く光っていた。何やら書き込みのある者もいた。

社長も黒かったが、その艶と輝きはなかった。

「上がって見ていってください」と社長が言った。

「いや、上がらなくてもここで結構ですから」と僕は言ったが

「ここまで来てんだから、中、見せてもらったらいいだろうよ。お前は何でも遠慮し過ぎ

んだよ」そう六ちゃんに言われて、僕は靴を脱いで電車に入った。

電車の中は、椅子が取り払われ畳が置かれていた。

中に入ってみると思ったより広い。

「案外広いですね」と言うと

「なっ、思ったより広いべ」社長が得意そうに言った。

そして、何より窓から見える景色が良かった。

原っぱの先に秋の林が連なり、青空が澄んでいた。確かその先には海がある筈だ。

取り立てて何もないのが良かった。ここへくるまでに見てきた景色なのに、電車の中から

見るとまるで違って見えた。

電車の中は、男の匂いでむんむんしていた。

女の裸が表紙になってる週刊誌があり、ビールやジュースの空き缶が転がっていた。

簡単な棚が置かれ、そこに靴や衣類が乗せられていた。

 僕は、そういったものを見ては悪い気がして、外の景色を見ていた。

「有難うございました」と頭を下げ外に出ると

社長と六ちゃんは、僕の後に続いたが、

「少しキレイにしとけよ!」と言っている社長の声が聞こえた。

「これ、いいなあ」と電車を振り返って僕は言った。

何だか、夢があって気持ちが明るくなる気がした。

僕の実家に金はないが、二束三文の土地は広くある。

電車は建築許可も必要なく、置く場所さえあるならすぐにでも置けるのだという。

「もうすぐ廃車になるヤツがあるんだ。私が、話し付けてきてやるよ」と社長が言った。

「熊田さんは、顔が広いから任せておけば大丈夫だよ」と六ちゃんが言う。

「じゃあ、お願いしていいですか?」

            ということで、電車が僕の店の隣に来ることになった。

 

 電車の価格は、普通、車両価格40万円、運搬代40万円の計80万円が相場だという。

しかし、熊田社長のツテと社長の会社のトレーラーで運んでくれるということで、

全部で、なんと!「25万円でいいよ」と社長は言った。

社長は僕のことが気に入ったんだと六ちゃんは言ったが、六ちゃんの顔であることは

間違いなかった。

社長は、兎に角若者が可愛くて仕方ないらしい。

いや、決してそっちの趣味ではないのだが、ご飯を食べさせたり仕事を世話したりして

喜んでいる。

それも、生き方が不器用で世の中に受け入れられにくいような者と気が合い、そういった

者のほうからも慕われているらしい。

「お前のこと、面倒みてやりたい気持ちになったんじゃねえの?」と六ちゃんは言った。

 

それは秋の話だったのだが、それから社長からの連絡はなく正月が過ぎた。

社長の方から連絡すると言っていたので、僕からは電話せずに待っていたのだが、

春も終わる頃、あまり遅いので電話を入れることにした。

何から何まで六ちゃんにおんぶに抱っこでは、あまりにも不甲斐ないので自分でした。

 

「あの、私、竹内と言います。電車のことでお世話になっています。社長さんいますか?」

電話が苦手の僕はドキドキしながら言った。

電話に出たのは、奥さんのようだった。

「社長って、前社長のことですか?」それは、ツッケンドンな言い方だった。

「えっ、社長さん辞めたんですか?」

「はあ、息子があとを継ぎまして社長は引退しました」

「じゃあ、電車のことは誰に聞けばいいですか?」

「電車は、前社長が勝手にやっていたことなので、私たちは分かりません。

それに社長は、もう仕事から離れていますので申し訳ありませんが、なかったことにして

ください」

「あの、連絡は取れませんか?」

「取れません」ハッキリ、キッパリと言われ、僕はあわててしまってその先何と言って

いいか分からず「失礼しました」と電話を切った。

 

 六ちゃんにその話をしすると、

「そんな馬鹿な話っちゃあんめ。それでは筋が通んねべよ。よし俺がどういうことだか

聞いてきてやる」と言い出した。

事を大事(おおごと)にするのが何より嫌な僕は

「いや、いいよ。元々そんなに必要があってのことじゃないし、電車が来ないからって

生き死に関わるようなことじゃないし」と慌てて言った。

「お前って何時でもそうな!諦めが早いっていうか、頑張らねえっていうか!」

「うん、でもいいんだ。なかったもんと思えばいいんだから、縁がなかったんだよ」

六ちゃんは、そういう僕を歯痒く思ったようだが、

「お前がいいってんなら、それでいいべ」と言った。

しかし、そうは言ったが六ちゃんの腹の虫は納まらなかったらしい。

そして、その後飲みに行った居酒屋で、熊田社長のポン友である上田社長に絡んだ。

「俺は熊田社長を見損なったよ。

男がいったん口に出したことを最後まで責任持たねえっちゃ、どういうことっすか。

俺の顔が潰れたのは構わねえけど、俺の友達が楽しみにしてた顔見てっから納まりが

つかねえっすよ!」六ちゃんはその時、だいぶ酔いが回っていた。

「お前、熊田のこと知らねえのか?」と上田社長が聞いた。

「何をっす?」

「熊田、去年の暮れに腹切ったんだよ」

「え、何でまた!」その話を六ちゃんから聞いた時、僕は切腹したのかと思ったが、

違った。

「まあ、胃潰瘍だって話なんだけど、よくは分からん」と上田社長は言った。

「それで、連絡なかったんだな。でも社長大丈夫なんすか?」

「まあ、大丈夫だろう。んだが、入院してる時にヘマしっちまったんだよ」

「何かあったんすか?」

「それがあ」と上田社長が話し出した。

熊田社長は、若い頃から酒好きで有名な人だった。

還暦の声を聞く年になっても衰えることを知らない酒の量だったのが、急に胃もたれと

背や腰の痛みを覚えるようになり、医者に行った。

急性の胃潰瘍だったらしい。らしいというのは、今時、胃潰瘍で胃袋の半分も取らないだ

ろうと上田社長は言うのだ。

 まあ、手術は難なく無事済んだ。

家族は東京の大きな病院でと言ったが、社長は遠くの病院は面倒くさいからと言って

すぐ近くの病院で行った。

近くの病院というのも、一長一短だ。

近いということは、何しろ便利だが、顔見知りが多い。情報も漏れやすい。

それまで社長の入院のことが分からなかったことが不思議なくらいだ。

そこの病院は古く、名物の看護婦が居る。

中々美人なのだが気が強く、仕事はやり手なのだが、医者より発言権があるという。

いや、仕事がやり手だからこそ発言権があるのだろう。

彼女は外科が担当だった。

外科というのは、緊急の患者や手術があって気の強い看護婦が多い。

いや、自然に気も強くならざるを得ないのだろう。

 そして、外科というのは、内科と違って切って手術してしまえば後は栄養を取って

寝ていれば自然と良くなる人が多い。だから病室が明るい。

社長が入院した時も、バイクで事故った若者とスポーツで骨を折った若者が入院して

いたが、元気でその他に何人か居た患者もそう大して深刻な者はいなかったという。

さすがの社長も切ったばかりの時はおとなしかったらしいが、二三日するといつもの

ヤンチャとサービス精神がムクムクと頭をもたげ、やってしまったのだ。

 

社長は若者たちと話ししていた。

「お前ら若いのに、こんなとこにいたら身体が鈍っちまうべ」と社長が言うと

「鈍るより溜まっちまうよ」とバイク事故の若者が言った。

バイク事故男は、自爆で自分以外に被害を及ぼしていないので気楽だと言った。

「親に心配掛けてんだろうが」と社長は言い。

「それは反省してるっす」とバイク男は言った。

社長には、若者を素直にさせる何かがある。

そして、若者をいきがらせ、自分もいきがってしまうところがある。

「あー、早く娑婆に出てえなあ」スポーツ怪我男が言った。

「本当だよ、女に会いてえなあ」

「ここにも看護婦がいるじゃねえか」と社長が言うと

「あの看護婦おっかないけど、よく見ると美人だよな」と一人が言い。

「うん、一見堅そうだけどいい女だよな」ともう一人が言った。

「どんなパンツ穿いてんのかなあ」頭に手を当て天井を見ながら言い

「あー、見てえなあ、パンツ」とため息混じりの声を聞いたところで名物看護婦が

入ってきた。

 その日、看護婦はまだ動けない社長のシーツを替えるためか、器具の装填か何かで

ベッドに立って社長をまたがる格好になった。

 その瞬間、社長は下から看護婦のスカートをちょいとめくり

「あっ、黒いパンツだ、ゲッカマンだ!」とやってしまったのだ。

分かるかなあ。昔は生理をゲッケイとかメンスなんて言ってたんだ。

今時、ゲッカマンなんて知らないだろうし、生理で黒いパンツを穿く人もいなかろう。

 しかし、その看護婦は怒った。

頭から湯気が出るくらい怒り、直接院長室に怒鳴り込んだのだ。

そして、「あの患者を追い出すか私が辞めるかの二つに一つだ!」と後に引かない。

有能で居なくなったら困る存在の看護婦だ。

院長が頭を下げたという、社長の家族にもそのことが知らされた。

 良い意味でも悪い意味でも自分の決断と采配だけでやってきたワンマン社長が入院し

息子も家族も大変な思いをしていた。

社長の奥さんと息子の嫁が交代に病院に通っていたのだが、家族の怒りは心頭に達した。

奥さんにしてみれば、ヤンチャで好き勝手なことをして生きてきた社長に対しての

我慢の限界がきていたのだろう。

他人から見れば面白ことでも、家族にしたら笑って澄ませないことがある。

「もう、恥ずかしくて病院には行けません!」と奥さんは言い、

嫁にも行かなくてよいと宣言した。

それから家族の見舞いはなくなり、顔も合わせず、着替えだけが届けられるだけになった。

 そして、よい機会だと社長の座は息子に移った。

 

 そんな時に僕が電話を入れたのだ。

なるほど、それであの言い方だったのかと納得した。

電車は残念だが本当に諦めることにした。

 

 ところが、上田社長が、「あいつの始末は俺がつけてやる」と言い出したのだ。

そして、上田社長が話しを付けて、電車を運んでくれることになった。

僕から電車の値段を聞いた上田社長は、そのあまりの安さに驚いたが、

「乗りかかった舟だ、男に二言はねえ!」とその値段で電車を持ってきてくれた。

 

 1992年の夏、早朝、黄色いトレーラーに乗って電車はやってきた。

「電車から車輪を外す時、悲鳴のような泣き声に似た声を出すんだ」と上田社長は言った。

電車は、準備してあった敷石の上に置かれた。

僕は、用意していたお金30万円を渡した。

封筒の中身を確かめた上田社長が、

「あれ?25って言ったんだよな」と言った。

「少しですが、気持ちですから受け取って下さい」と僕が言うと

「そうか」と言って、ニヤッとして内ポケットに納めた。

 

そういう訳で、今、僕の所に電車がある。

消毒実施表が、きた時のままに貼ってある。

年に三回行われていた消毒の最後の日は、3年(1991年)11月5日となっている。

40年間その単線でチンデンとして働いたこの電車は、その年に線路から降りた。

 つまり1951年生まれの僕がこの世に現れた時に、この電車は、ここの地にやって来

ていた。

この地で、僕が生きたのと同じ時を走ってきたのだ。

 2005年 春 その単線が、廃線になった。

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