花見

 

 4月4日、病院での内視鏡検査の結果。

「取り敢えず、再手術はしなくても大丈夫でしょう」ということだった。

 風が冷たくて、東京の桜は満開らしいがこの辺りの桜はまだ硬かった。

「良かったー」を二人で繰り返しながら母を家に送り届けた。

 

 冬に逆戻りしたような寒い日が続いていたが、4月8日、久し振りに晴れた。

風は冷たいが、しだれ桜が満開になったという噂を聞いて両親に電話する。

 モチロン「あー、行くべ!」と二つ返事で二人はやって来た。

急遽仕事を休むと宣言した私は「すんません、花見に行ってくる」とスタッフに後を

頼み、今年82歳になる父が運転する車に乗り込む。

 仕事の手伝いにと毎日、車に乗っている父だが、何時まで運転を続けられるか。

 

 最初に行ったのは、私たち(私と両親)が生まれ育った町だった。

その町内で私は生まれた。2歳になる頃に、今娘が住んでいる家に引っ越してきた。

 そして、両親は3年前、私の近くに住みたいと長年住んだ家から私の住む家の近くに

新しく家を建て越してきた。

 その町では、旧暦のひな祭りということで3月18日から4月18日まで、商店街に

お雛様が飾られているという話を聞いていた。

 そこは古い城下町だが、幸い戦火にも遭わず時代からスッポリと抜け落ちたような

それは、都会には見られない骨董ともいえるような風情がある。とは、身びいきの郷愁に

よる美化かもしれない。

元吃音のあった国鉄職員だった噺家(はなしか)三遊亭歌奴が、“山のあなた”を朗読

する中に「ふるさとは遠きにありて想うもの」って部分があった。

室生犀星だかの歌にもあったけど、あれは、確かカール・ブッセだったな。って、

話がなげーし逸れるんだよ。

 

 以前市役所だった会館の駐車場に車を停め、会館に入る。

すると、そこの会館を寄付したという人の経歴が展示されていた。

 別に興味もなかったが、両親と一緒に中に入ってみる。

人は誰も居ない。耳の遠い母と大声で喋る。

「金持ちが、使い道に困ってここを寄付したんか?」と私。

「いや、そうでもないだろ」と父。

「だって、この写真見てみなよ。大分金持ちのニオイがするだろ?」

そこには、セピア色になった家族が写っていて、その人は生まれながらの金持ちだと

私は思った。

 でも、その経歴を見ていくと、「こんな小さな町に居たんでは普通の人生しか送れない。

俺は、自分で自分の人生を切り開くんだ」というような本人の言葉があって

「人と同じことをしていたんでは、人と同じ人生しか歩めない」

「自分は、どれだけ頑張れるか、自分の可能性の限界に挑戦するんだ」という彼の気持が、

伝わってきた。

 大正10年に若くして北海道に渡り商売を始める。

その苦労は並大抵のものではなかったらしいが、何もなかったところから店をドンドン

大きくしていって成功し、故郷に錦を飾る。

 昭和4年に寺に6万5千円の寄付。9年に八幡宮に3万5千円、その他に3千5百円

とか、色んな所に(私の母校にも)寄付していた。

「お母ちゃんのオンバサンって人が、戦争(第一次世界大戦)で旦那が亡くなって、

その時に国からオリタお金が千円だったんだと」と母が話し出した。

「その頃千円で家が建つ時代だったてのに、保証人になっていた本宅のお祖父さんって

人が若いうちに金持つと無駄に使ちゃうからってハンコついてくんなくて、ようやく

ハンコくれた頃にはスズメの涙になってたんだ」

それは、何度も聞いてきた話で、私はそれを聞く度に悔しい気持ちになる。

戦争で夫を亡くし、幼い子供3人を抱えたオバサンはどんなに苦しかったか。

 それは、子供が大きくなるまでお金を使わないようにという親切心であったらしいが、

どんなに頼んでも判をくれず、結局、その間にその金の価値はなくなってしまう。

 私は、その話を聞く度に、「意見や考えを言っても、人の人生には口出しをしない」と

心に決める。

何事に於いても、考えるのも決定するのも、そしてそれらを背負っていくのも、当の

本人でしかないと思う。

「それにしても、スゴイねぇ。千円で家が建つ時代に6万5千円だよ、寄付!」

「ホントだな、苦労して貯めた金だっぺのにな」と母。

「その頃の北海道って、どんなだったかな?」と私が言うと、

「あー、オレのオヤジそこで働いたみたいだぞ」と珍しく父が話し出した。

「えー、お父ちゃんのお父ちゃんがぁ?」

「うん、2年くらい北海道で働いて、そんで帰って来てから今の店始めたんだな」

「それで、つぶしたんだ」と母。

「つぶれてはいないけど」と父。

「でも、金に困ってあそこの土地、抵当に入ったんだっぺよ。

それより麻子、これ見てみろ」

と、祖父の話を聞こうと思っていたのに母が参入。

そこには、昭和9年にあった函館の大火の写真があった。

「この大火で函館の太い道路が出来たんだよ」と私が話し出すと、そういう講釈は聞き

たくない母はすぐにおとなしくなる。

 私が喋りだしたら、長いよー。

 

晴れてはいたが風が冷たかったのと、そういうものに興味がないからと父は車で待つ

ことになった。

母と二人で町に繰り出す。

ひな巡りは、57軒あってそこでスタンプを押すようになっていた。

手近な所から入ってお雛様を見て、入り口にぶら下がっているスタンプを押す。

私が高校の制服を誂(あつら)えた店、入学のお祝いで時計を買ってもらった店。

 今は更地になっている町のデパートと呼んでいた店のあった場所。幼い私はそこで

マーブルチョコを買ってもらい、ラーメンを食べるのが一番の楽しみだった。

 初めてホットケーキを食べたのも、スパゲティを食べたのもそこの店だったことを

思い出す。

 古いお雛様、新しいお雛様、ひな壇に飾られたもの、ケースに入ったもの、木目込みの

お雛様から吊るし雛まで様々なお雛様が、各店に並ぶ。

 普段は入れない家の奥に入れるようになっている店もあった。

町家造(まちやづくり)というのだろうか、間口は狭いが奥に向かってひょろ長い家の

造りになっている。

 それは、同じ町内にある父の実家と酷似していて面白かったが、寂れ行く町が衣を

脱いで奉仕しているような痛々しさを感じた。

 沢山のお雛様の中に、神社のような屋根の中に内裏雛(だいりびな)が座っている

ものを一つだけ見つけた。

 それは、私がかつて持っていたものと同じものだった。

入り口が階段になっていて、屋根の下にお内裏(だいり)様とお雛様が座っている。

 塗りのお膳に蓋付きのお吸い物椀やら三々九度の皿に似た皿。興しいれ道具みたいな

小さな箪笥。それらの物は、私がオママゴトに使って何処かに無くしてしまった物だった。

 その他に、オジイサンとオバアサンの人形があって、岩や亀に鶴それに松の木があった。

祖母はそれを「あなたヒャクまで、わしゃクジュウクまで」と言っていた。

 どっちだかの手に箒(ほうき)が握られていて、その小さく巧妙に作られた箒も、格好

の私の遊び道具になって消えた。

「あー、勿体なかったなぁ。

アタシのお雛様みたいなのって、もうないんじゃん」

「んでも、イッパイ遊んだんだからいがっぺ。

おめえが遊んでっと、オジイサンもオバアサンも喜んで遊んでんだから遊ばしといてやれ

って、絶対怒んなかったんだぞ」

「いやー、申し訳ないねぇ」とは言ったが、祖父母の家では、外便所だったので夜に

オシッコがしたくなると土で固めたような台所横の敲(たた)きでオシッコするなど

今考えると普通では許されないようなバチが当たりそうなことが、私は許されていた。

 お雛様も随分それで遊んで、顔が壊れてコワイというのを聞いた祖父母が、

「これはちゃんとしたトコに持っていかねえと」と言って神社だかに納めてきた。

そんな話を聞きながら、そんなことでいいんだろうか。と、ちょっと思った。

 

 57箇所中18箇所のハンコがついたところで、昼。

腹が減ったからその辺で食べようということになり、父を迎えに行く。

 城下町は、家々が壁となっていて風を避けているが父が待っていた駐車場はすぐ横が坂

になっていて下から吹き上げる風が強い。

 

近くの食堂に入る。

中に入った途端、暖かい湯気に包まれる。窓ガラスが湿気で濡れている。

壁の柄もそこに貼られたポスターも、カラーボックスに飾ってあるモノもそこに置か

れたテーブルも椅子も、半分が高くなっていて畳になっているすべてが、懐かしい昭和の

臭いがした。

入り口近くのテーブルにはお客らしい70歳くらいの男と女が座り、厨房に近い方の

テーブルには、そこの店の者と思われる70過ぎの太ったオバサンと、60過ぎの痩せた

オバサンが食事をしていた。

 私たちは、靴を脱いで畳の方に上がりお膳の前に座った。

お客の男が、東北系の強いナマリ言葉で喋っている。と、連れの女が、

「あんたのナマリも直らないねぇ」と言ったが、その人も充分に関東系にナマッテいる。

「ウッセ、気取ってる奴ほど何考えてんだが分がんねんだ!

ニンゲン、言葉じゃねぇ。気持ちが大事なんだ!」と男は言ったが、その高く上げた手の

指には煙草が挟まれ煙が上がっている。

 狭い店の中は、入った瞬間から煙草臭かったが、ドンドン煙っていく。

(あー、気持ちも大事だろうが周りのことも考えてくれよ)と思っていると、案の定、

父のセキが出始めた。

「ここ、少し開けさせてもらおうね」とすぐ横にあった窓を5センチ程開けると冷たい

キレイな空気が入ってきた。が、

「こんなにアッタカクしてんのに悪いべ」と母が言う。

「お父ちゃん、セキが出てっぺよ」と小声で言う私。

「あー!?」

「だぁから、タバコのケムリ」

「あー!?」

 やれやれ、耳が遠い母には内緒話が出来ない。ので、無視。

 

 3人共、五目ソバを頼む。

母はイソイソと私の前に割り箸を置く。

 暫くして厨房から五目ソバが、太った方のオバサンの手で運ばれてきた。

湯気の立つドンブリが父の前に母の前に、そして、私の前にトンっと置かれた。

行こうとしたオバサンの動きが、一瞬止まった。

“ん!?”とドンブリの中を見た。

そして、行こうとしたが、“ん!?”と固まった。

ドンブリに顔を突っ込まんばかりに見ていたオバサン、その横に置いてあった

私の割り箸、やおら手に取りパチンと割った。

(おいおい、勝手に何してくれてんだよ)心の声。

(どうする気だ?)と黙って見ていると、ソバの具の上に乗った何かを取ろうとしている。

 でも、老眼なのか、中々つかめない木屑のような虫にも見えるその物体。

やっとつかむと、それを指先で確かめている。

 ふっと私の視線に気付いたオバサン、

「あっ、ゴメンネ」と割り箸をドンブリの上にチョンと置いた。

割られた割り箸、何かをつかんだ割り箸、を。

そして、振り返りもせずに指先の何かを確かめながら厨房へと入って行った。

(信じらんねー)と思ったが、五目ソバは美味かった。

 

 それから、しだれ桜を2箇所見に行った。

車に乗っていると父は同じことを何度も繰り返し話し、母はそんな父をこき下ろす。

(こうやってケンカしていることで、二人はボケないだろうな)と思うが、うるさい。

 

 桜はキレイだった。

カメラを持った父はよろけながら、レンズを向ける。

 桜は満開で、空は真っ青だった。

父に仏頂面して見せる母をくすぐって撮った写真が出来上がってきた。

みんな照れ臭そうに笑っている。

 

4月8日、お釈迦様の生まれた日だった。

 

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