人目

 

 なーんて言ったらいいのかなぁ。

私は、ずーっとシアワセとはどういうことなんだろう?と考えて、考え続けて生きてきた。

 シアワセになりたい!と願って。

 

時に、若しかして人はみんなシアワセでそれに気が付かないだけで、シアワセである

ことに気が付くだけでいいのかもしれない。と思った時期もあった。

 

 でも、どう見ても生きているのが苦しそうに見える人(大きなお世話なのは分かって

いる)が居る。

 自分が苦しくて仕方がない時もあった。

私は、苦しいということを、自分他人を問わず、ずっと観察してきた。

 苦しいとはなんぞや。先ずは苦しいということの正体を付き止めなければ、先に進め

ない。

そして、その正体から原因を明らかにし、それに対する対策を立て先に進みたい。

 

 子供を育てている母親に大変そうに見える人とそうは見えない人が居る。

その違いを考えた時、大変そうな人は人目を気にしているように見える。

人目を気にしていると、目の前の子供の様子も気持ちも見えなくなる。

子供の心より人から何か言われることに戦々恐々としていて焦っているように見える。

焦った時、その人が求めている所から事はますます外れて行く。

そこで何か言われるとムキになり、意固地になり、気持ちが益々固くなる。

 

 シアワセの形は一つだが、不幸の形は不幸の数だけ限りなくある。なんて言ってた人が

居たっけなぁ。

 だけど、心が苦しくなるパターンってある程度決まっているんじゃないだろうか。

 

 それは何かというと、身に程知らず(向上心とは違う)焦り、思い上がり(自信とは

違う)傲慢(ごうまん)嬌慢(きょうまん)意固地で、それとセットなのが、“人目を気

にする“のような気がする。。

 人目を気にするのは、気遣いと似ているが、根本的に違う。

気遣いはそこに居る相手や周りに向かって心が開いているが、人目を気にしている時、

その人は、心を閉ざし自分のことしか考えていない。

 

 つうことは、そこから楽になる方法は簡単。心を開く。

人目を気にせず、等身大の自分を受け止め、素直な心で気遣いを心掛ける。

方法は簡単だが、それを行うのはなかなか大変だな。

 

人目と同時に、人を気にしない。人に押し付けない。ということも大事。

人はそれぞれのやり方、生き方がある。

 自分はこうしたらいいというやり方で、考え方で生きている。

 

私なんぞは、今書いていることもそうだが、これが正しいというか、こうしていこう。

という確固たる答えを出すのが無類の楽しみ。

 考えがまとまり、更に実行して思うような結果が出ると人に話したくなる。

ここがあって良かった〜。

 

だけど、人には人それぞれのペースとパターンがある。

私にとっての正解が、人にとっても正解とは限らない。

そのことを肝に銘じて忘れないようにすることは、私のシアワセ、心の平安の鍵。

 

実は、私は

「何で、あの人はあんなことをするんだろう」とか

「どうして、こうやらないんだろう」という気持ちになることが非常に多かった。

 その気持ちは、自信過剰と傲慢、人間不信だった。

人に対しての不信は、自分に返る。

 人は、それぞれ道半ばではあるが、誰も与えられた道をちゃんと歩いているんだ。と

思う。

 

 人目を気にしていると苦しい、人のことが気になっていると辛い。というのは、今の

自分を顧み、生きる道を選ぶ時だというお知らせなのかもしれない。

つうことは、辛い苦しいってことは、有り難いこと。なのかもしれない。

 

 

 

 

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