夫婦喧嘩(げんのしょうこ)

 

 私たち夫婦は、派手なケンカをする。

げんのしょうこは、兄が4人も居たにも関わらずケンカって見たことないらしい。

 

 だから、初めて私たち夫婦のケンカを見た時は驚きを通り越してショックだったらしい。

「だから、黙って話を聞けよ!」これは、私のセリフ。

「そうやって、自分だけが正しいと思ってんじゃないよ!」これは、夫。

 何が原因だったか、エキサイトした夫はバーンと、目の前にあったテーブルを平手で

叩いた。

 その時、げんのしょうこの目玉は飛び出しそうになっていた。

 

 げんのしょうこが驚いたのはそれだけでなかった。

それから1時間も経たないで夫が私の所へ来た。

「おかあさん、今日のお昼はどうするの」

「んー、ご飯がないからウドンでも茹でる?」

「あぁ、ウドンでいいんじゃない」

「じゃあ、オトウが茹でてよ」

「あー、いいよ」

「汁も頼むわ」

「はいよ」

 げんのしょうこ夫婦はケンカ、といってもウチみたいに派手なやつはやったことがない

らしい。

 どうも聞いているとミミッチイ口喧嘩みたいなのをやるらしいのだが、ケンカすると

お互いに意固地になって一週間も口を利かないという。

 だから、ケンカの派手さにも驚いたが、その立ち直りの早さにはもっと驚いたという。

へっへーん、ウチのケンカは、半日以上続いたことがありませんよーだ。

 

 げんのしょうこは、私みたいな人は初めて見たという。

やりたい放題で喧嘩は最強、なのに弱いところは子供以下。

 夫に対しても自立してるのか、頼っているのか訳が分からないという。

彼女とは、もう20年以上も付き合ってきている。

それも目的が同じで常に摺り合わせを行ってきているので、好みや価値観が似てくる。

「私は麻子さんに感化されちゃったのかな?」とげんのしょうこは言うが、元々あった

彼女の素質は同じだったと私は思う。

 個性、個人の性格というのは、みんな自分の中にあると思っているが、人との関わりに

よって自分でも驚くような自分が現れてくることがある。

 言っちゃなんだけど、げんのしょうこは私と付き合ってきたことでそれまで縛り付けて

いた感情を表に現すようになり、自分の本当の気持ちに気が付いたんじゃないかと思う。

 げんのしょうこは、「私は色々考えるのが面倒だし嫌いなの」と言う。

彼女は私と違った意味で非常に臆病。 人と争うことは大嫌いで、危険なものと絡む

など問題外。

その為に危険探知機が発達しているんじゃないかと、私は思う。

「何だかヤダ」と彼女が言った人や状況は、必ずといっていい程、何か被害を与えた。

 そういう人と私は関わることが多かった。

私は、そういう人や状況に出くわすと(面白い)と思ってしまう。

 (あやや、何だか面倒なことになりそうだ)と思いながらも、その面白さには勝てず

黙って流せばよいことに首を突っ込む。(最近は、ちょっと減ってきたが)

 思うんだけど、人は危険とか障害ってのを、乗り越えられるギリギリのとこまで引き

寄せるんじゃないだろうか。

 げんのしょうこの忍耐と頑張りは、私には到底真似出来ない。

でも、私の忍耐と頑張りも、げんのしょうこには耐えられないんじゃないかと思っている。

 

 げんのしょうこには、作為といったものがあまりない。

作為の全くない人は、健常者の大人には居ないんじゃないだろうか。

殆どが作為で生きているのが大人と言ってもいい気がする。

その作為がげんのしょうこには、あまりない。

書き込みでも書いたが、私は中学の時に太宰治の“人間失格”を読んで凄いショックを

受けた。

 それが、何なのかその時は分からなかったが、何度も読むうちに自分の弱点の原点だと

思った。それは、作為だった。

私は作為の塊のような子供だった。

それから、私の人生のテーマは「作為なく生きる」になったが、未だにブレ続けている。

 

 私は書いたモノを、最初にげんのしょうこに見せてきた。

「どー?、どー?面白い?面白い?」

「どーよ、読みやすい?」

「これ読んで、どー思った?」と、その度に聞いた。

すると、

「私は、思ったことを言葉にするのが苦手なの!

どー、どーって、思ったことがちゃんと伝えられなくて的外れなことを言ったら麻子さん

嫌な顔するんでしょ」

「そんなことしないよ」

「ウソだね。すぐにウスイとか浅いとか言うクセに、面白いから読みたいけど、感想

聞くなら読みたくない」

「分かったよ、聞かないよ」

 ところが、げんのしょうこは文章の流れの滞りを的確に指摘する。

てにおは、の間違いをちゃんと見つける。

 何より、私の作為に気が付く。

その時の言葉が、「何だかヤダ」

 何処がどうイヤな感じがするのかと聞いても、本人もハッキリ言えないが

「何だかイヤな感じがする」のだと言う。

 書き込みに「自然に不思議に思ったことをぽつりと言うだけで、人に気付かせる、考え

させることが出来るってすごいな」とあった。

 そう、自然だから気付かせ、考えさせられることになるんだと思う。

それを、教えようとしたり気付かせようとして行った時、アマノジャクの私がそれを

跳ね除けるのと同じように、的から外れ、核心から逸れるのかもしれない。

 

 私はげんのしょうこと知り合いになっていなかったら、夫と別れていたかもしれないと

思う。(心が)

 そして、げんのしょうこも私たち夫婦を知らなかったら心が別れていたかもしれないと

私は思う。

 そう、彼女に言うと「麻子さんたちは、そうかもしれませんけどウチは違います!」と

必ず言う。

 いーや、私たち夫婦という最高のお手本(本音でぶつかりどんな凄いケンカになっても、

心さえあれば大丈夫なんだという)あってこその、今のげんのしょうこ夫婦だと思う。

 

 げんのしょうこと私の似ている所は、照れ屋、意地っ張り、だらしないことや頑張ら

ないことがキライで、人に認められることをそんなに重要視していない。

 だから人に認められなくても平和。

物欲しげなのがキライで、毅然としていないのもイヤ。現を抜かしている人がイヤで、

甘ったれて生きている人もキライ。

 感謝していても、好きでも、素直に言えない。言いたくない。

 

 最近、私、素直じゃない自分に素直になったみたい。

 

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