隠居1

 

 私が書くエネルギーは、枯渇(こかつ)怒り、溢れ出す想いはボルケーノ(火山の爆発)

なんて言うと、大袈裟で何のつもりをしてるんだ。という母の声が聞こえてくる気がする。

 私の人生は恵まれたものであったのだろう。なのに、常に感じてきたのは不条理、矛盾

人の奢り、思い上がりへの腹立ちだった。

 

 親は子を、愛という欲でシアワセにしようとして支配していることに気付かず行う。

親に愛された子は、大丈夫。という常識が、親の居ない子はダメだ。になる。

人として人間の尊厳に気付くことが出来るのは、無償の見返りを求めない存在がある

ことに気付くことなんじゃないだろうか。

その無償の見返りを求めないモノが、親であることは多いが、その親もまた自分の尊

厳に気付くべき人である。

 自分の求めていたものを子に求める者が居る。

私がやりたくても出来なかったから、子供にはやらせてあげたいの。

私はこうだったから子供にはこうしたい。という論理は自己満足の領域から脱しては

いない。

子供と自分は違う人間。

自分とは違うその人オリジナルの運命、宿命、才能、縁、想いを持って生まれ、その人の

人生は、その人の縁によって、その人が切り拓いて行くのだ。

そこに自分がどう関わっていくか、子を育てることは自分の問題。

子を育てる時、自分を育てることが同時進行で存在する。

 子は、自分の子だけが子ではない。

先に生まれた親、大人、先輩は先生、先生だからエライ訳ではない。

先に生まれ、経験が少し多いだけのこと。その経験知識が無明(分からないことを知

らず、何でも分かったつもりの心)とならない努力をする。

 そう、努力しないと思い上がりの心は幾らでも自然に生まれ出て来る。

親鸞は、自分に弟子は居ない。と、弟子と呼ばなかったという。

覚如上人が二十四輩(にじゅうよはい)と称した。

輩とは(ともがら、同類、仲間、たぐい、やから)という意味だ。

 親鸞聖人というお方を思う時、私はシアワセなお方であったのではないかと思う。

何より自由を感じる。縛られず、壊さず、輩が居た。

 ヴェクトール・フランクリンは、ナチス強制収容所での絶望と恐怖の夜

自分を奮い立たせるのは、闇に聞こえる仲間の進む足音の響きだった。と書いている。

 親鸞聖人というお方は、輩が居られた。

 

私は、よく喋る。

喋りたいんや〜。

 でも、ちゃんと喋りたい。

ちゃんと喋るとは、誤解のないよう相手がちゃんと理解してこその喋りで、それには

最後まで丁寧に喋る必要がある。そして、相手の意向、話も聞きたい。

 その為には、相手に聞く意志があることが必須である。

聞きたくない人に話そうとすると誤解が生じ、疑心暗鬼の鬼が暴れ出す。

聞きたくない人に押し付けや無理強いは禁物であることを、私は何度経験してきたこ

とか、それでも懲りず、懲りが足りないのか、先日のようなことになった。

辛かった。でも、私は喋ることはやめないな。と思う。

 

 そういうことがあった頃、ある人と話す機会があった。

これが嬉しい、隠居を考えていた私にとっては嬉しい励みとなる出逢いであった。

 その話は次回。

 

 さっさと書けよー!

 

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