隠居2

 

 これは、もうずっと前から、私が生まれる前から始まっていた。

と、知らされる、知る、納得させられる、納得せざるを得ない、納得できる、納得する

事がある。

いや、若しかしたら、気づけばそういうことで世界は成り立っているんじゃないだろ

うか。大袈裟か。(オオベエカ。風に)

 

 先日、出逢った人に熱弁を振るった。

まあ、いつものことだ。

 後付けになるが、私はその人に何かを感じた。

何かとは何か。

 どう言っていいのか、繋がっていく人には感じるモノがある。

その相手もそれを感じることがあって、雅美などは最初逃げようとしたが逃げられず

「あ〜、捕まっちまった」と思ったらしい。

 彼女との出逢いと原発との絡みは面白い。

まぁ、それはさて置き、今回出逢った彼の事を話そう。

 

彼に、信頼出来るものを感じた。

目が真直ぐで、私が攻撃的に熱く語っても逃げない、何か一途なものを感じた。

次に会った時か、その次あたりか、彼に教師臭を感じていた私は、ジャンジャック・

ルソーの自然先生と、親鸞の説く自然法爾(じねんほうに)は同じことを言っていると

思っていて、全てのモノの中に自ら出来上がっていく力を持っているのだと話した。

何回目かの時に、「テレビの“チコちゃんに叱られる”で、『あした』と『明日(あす)』

の違いについてやっていたが、あなたは分かるか?」と聞いた。

彼は「『あした』というのは朝で『あす』というのは、普通に言う明日、明日のことです

よね」と言った。

「何で分かった?」

「小学校の時、音楽で『♪あし〜た浜辺を彷徨〜えば♪』で、このあしたは、あすのこと

でなく朝のことだ。って言ってたのを思い出したんです」

「そっかぁ、私は『明日(あした)に道を聞かば昨夜(ゆうべ)に死すとも可なり』って

いう言葉が浮かんだんだんだ。知ってる?」

「はい、朝に道理を知ることが出来たら、夜死んでも構わないっていうような意味です

よね」と彼は言った。

私は嬉しくなって、「ヴエクトール・フランクルの夜と霧を知っているか?」と聞いた。

ナチスの収容所の彼の話を、彼は知っていた。(チコちゃんは知っている風に)

彼に私の攻撃的なまでの熱い語りに負けない強さ、自分や社会に対して疑問を持つ強さ

と、同時に危うさを感じた。

その危うさは、自分と同じものだった。

今の子供達は病んでいると彼は言う、「自分は何をしたらいいんだろう?」

「自分に何が出来るんだろう?」と彼は言った。

私は、それを聞きながら自分を突きぬけろ!と思っていた。

自分はどうしたらいいか、自分に何が出来るかの自分を捨てて目の前を看た時、やるべ

きことが現れる気がする。

それは必ずしも自分でなくても良かったりする。

自分一人で全てを背負う気持ちも大事なんだろうが、物事は流れに沿って進んで行く。

 流れを作るのは、人の気持ちと心、ハートだ。彼に私はハートを感じた。

「サンカって、知ってる?」

彼が、知ってると言ったか知らないと言ったか定かでないが、私はサンカについて語

り出した。243参照

 何故、その話をしたか、それは人が人を教え育てる原点である気がするからだ。

教育、養育は、互いに平等な立場にあり、そこに人間の尊厳と敬意が存在する。

48年前のそのサンカが居た施設には、強き者(管理者、教師)の弱き者(入所者)へ

対する敬意も尊厳も、私には感じることが出来なかった。

 彼にその話をして、普段は実名を出さないことを旨としているのだが、その施設の名を

言った。

 彼は、驚いた顔をした。

同時に私は、相手の氏素性、職業などは、私からは聞かないことにしているのだが、

「何処の学校に居るの?」とその時、聞いていた。

「その施設です」と、彼は言った。

一瞬、あの時の侍のような顔をした少年が大人になって今ここに居るのかと私は思った。

しかし、勿論そんな筈はなかった。

 私が、あの施設で実習していた頃にその彼は生まれていた。

そして、時を経て、今、そこで働いている。

これだけある施設と職業の中、私の人生を変えたあの施設で働く人と私は出逢っていた。

彼がそこへ行く前に居た施設も、私は知っていた。

人を人として見ないような所だと知人から聞いていた。

その知人は、そこに勤めていたことで心の病になった。

その施設は、暴行によって死者が出て、女子へのいたずらも発覚し新聞に出た。

彼は、そこの立て直しに加わり、次に今の施設に来たらしい。

 嬉しかった。

世の中、捨てたもんじゃない。

ヴェクトール・フランクルの言葉に「この地上には二つの人種しかいない。品位ある人種

とそうでない人種だ」というのがあるが、ナチスの強制収容所は形を変えて存在している。

 私は、心に傷を抱えて生きる人や世の中の不条理不合理の闇を知ることが多い。

知らない人は「そんなことはない」と言い切り「私はそんな相談されたことはない」と

言いきる。

人の話に耳を傾けず、人の身になって考えることをしようとしない人は、この世の

上っ面だけを見て、比べ評価し優劣を付け、人に求められることもなく生きていく。

私は、何だか色んな事に嫌気がさし、心の調子が悪くなる時がある。

その彼もウツ鬱とした気持ちになるらしい。

それも嬉しい気がした。

フランクルは「悩む人程、健康で人間的だ」と言う「何故なら、悩む能力が麻痺してい

ないからだ」と。

 「すべての人は、人生における独自のミッション(使命)を持っている」

そして、「ミッションは、つくるものでなく、発見するものである」という。

「小さな事が気になるのは、『自分は神のように完全であるべきだ』と思い込んでいるか

らだ」

「人生は結果の責任まで人間に要求したりしない」

「深刻な時程笑いが必要だ」

「自分を忘れた時、本当の自分を発見する。

本当の自分を表現する時、自分はいなくなる」

 今日は、フランクルが大活躍だな。

そして、

「絶望の闇の中で自分を奮い立たせるのは、そこに進む仲間の足音を感じる時だ」とも

言っていたな。

仲間とは、自分が共感して仲間だと思ったらその瞬間、仲間だ。

むのたけじ氏、河合隼雄氏、灰谷健次郎氏、広瀬隆氏、辺見庸氏、親鸞聖人、お釈迦様、

マザーテレサ、今回の彼、品位ある人種。

 

最近、隠居しようと心に決めた。

最近の辞書では、「隠居とは、責任を持たず、好きなことをして暮らす」とあるらしい。

って、なーんだ、今までと変わらないじゃねえか。

 

エミリー・ディキンスン

「一羽の弱ったコマドリを助けて、巣に戻すことが出来たら、

私の人生も無駄ではなかった」

 って、これが私のやりたいことだな。

そして、コマドリは自分の力で育ち飛び発って行く。

 それが私の喜び。

 

ここで気を付けなくては、

 ある覚者が、水に溺れた人を助けた人に問う。

「あなたは、誰の為に助けたのか?」と。

助けたあなたと、助けにいかなかったあの人達は同じだと、覚者は言う。

「助けに行ったあなたは、あなたがそうしたいからそうしたのであって、助けに行かな

かった人も、そうしたかったからそれを選んだ。

人の為にすることはない。人の為と書いて偽となる。自分の為に人は生き行動する」

 

ヴェクトール・フランクル

「人はいかなる時でも自由である。

自分の態度行い、有り方を決める自由を持っている」

「自分の人生は、人に嫌われないためにあるのか、

それとも、やりたいことを実現するためにあるのか」

 

 

 

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